ZERO-36 死んだ魚 (蒼太の過去話)


鳥羽は、10分もしないうちに、部屋を出ていき
取り残された蒼太は、夜が開け始めた窓の外を見つめて ゆるゆると心に広がっていく灰色の何かを感じていた

話は、少しだけさかのぼる
これは蒼太が麻薬を身体から抜く治療から目覚めた、そのすぐ後の話

「身体が衰弱しているから、2.3日は激しい運動は避けてね
 明日からカウンセリングをするわ
 いいかげんに、あなたの不眠症を治してあげないとね」
テレーゼが部屋にやってきたのは、朝の9時
蒼太にほぼ無理矢理に、おかゆのような、リゾットのような、スープのような
そんなものを食べさせて、何本か注射を打ち
簡単に診察して 彼女は蒼太の髪を撫でた
「祐二の仕事は2.3日で終るわ
 帰ってきたら、新しい仕事が入ってる
 貴方の体調次第だけど、行く気なら それまでに身体を整えておかないとね」
テレーゼの言葉に 蒼太は自分の腕に視線を落とした
傷はほとんど治っている
目も、視力は下がったけれど もう違和感もないし痛みもない
内臓は、薬で傷んでいるだろうけれど、それでもさっきは少しだけど食事もできたし
何よりテレーゼがつきっきりで治療してくれている
回復は、時間の問題だと 今までの経験で知っている
2.3日したら、この吐きそうな気分の悪さも収まっているだろう
「カウンセリングを受けたことは?」
テレーゼの問いに、ありませんと
蒼太は答えた
自分がこんなに弱い人間だったなんて思ってもみなかった
精神を病むなんて
こんな風に、眠れなくなるほどに何かを思い悩むなんて
「組織の人間にかかるプレッシャーを数値で表すとね
 普通に生活している人間の およそ41倍
 普通は、正常でなんかいられないわ」
蒼太の心を読んだのか、テレーゼは言うと そっと溜息をついた
「組織の人間は 誰もが必ず精神を病む
 だから、心を鍛えるトレーニングをして、何かを諦める覚悟を決める
 余計なことを考えない狡さを身につけ自分を守る
 でないと、心が崩壊して、あっという間に壊れてしまうから」
その言葉に、蒼太はテレーゼに受けた訓練を思い出した
頭の中で色んな体験をして、色んな感情を覚え、それに対応し克服し、自分のものにするというような訓練だった
他人の感情が心に重くのしかかるようで あの頃は訓練の後 何かをするという気になれないほど参っていた
自分というものを、どこに置けばいいのかわからなくて
毎日 訓練が終るとベッドで唸っていた
その呪縛から解いてくれたのは、鳥羽が戯れにあけたピアスだったか
肉体の痛みが、自分の居場所を教えてくれるようで
たくさんの感情に溺れていた自分を、救い出してくれるようで
迷子を見つけてもらったみたいに、
手を引いてもらったみたいに、
ようやく何かふっきった日、心が少し楽になった
それを思い出して、蒼太は耳のピアスに手を触れた
今や 穴がいくつ開いているのかわからない
バチン、パチン、と
鳥羽が面白そうにあけていたから 一時は6つも7つも開いていた
その全部にピアスをするわけではないから、いつのまにか閉じてしまったものもあるけれど
「私のやるカウンセリングは心に直に触れる治療だから、あなたが私を信用して心を開いてくれたら、とても効果がある方法よ」
テレーゼが自分の手を光にかざした
その手で、心臓を撫でられるような感覚を覚える
「・・・僕はテレーゼさんを信用しています」
彼女は、何か自分にとっては特別だ
同志とでもいうか、それとも ああなりたいという憧れの類か
鳥羽への想いという罪を共有する、共犯者みたいな感覚
「私も、あなたの感情や考えてることに、とても共感するわ
 だから、私ならあなたを前に進ませてあげられる」
でもね、と
ヒラヒラと手を動かしながらテレーゼは続けた
「でもね、ゼロ
 心というのは自分で決めなくては、やっぱりいつかは壊れたり、流されたりしてしまうものなの
 あなたは覚悟を決めなければならないわ
 それが結果、自分を守ることになる」
静かな言葉
でも、テレーゼの言葉は心にすっと染み込んでいく
悲しいくらいに 全てが彼女の言う通りで
悲しいくらいに 彼女は蒼太を想ってくれてる
「今夜はゆっくりしてなさい」
蝶みたいに舞うテレーゼの手を見ていた蒼太に、彼女は笑うと席を立った
静かに部屋を出ていく
取り残されて 溜息をついた
覚悟を決めなければならない
でなければ、こんな自分など
いつ鳥羽に見捨てられるかわからない

次の日、朝から晩までカウンセリングは続いた
潜在意識を呼び起こし、心の中を空にするまで自分のことを話し
やがて どうしても言えない想いに行き当たると、テレーゼは蒼太をそっと抱きしめた
「言ってはいけないと いつも自分に言い聞かせてるのね
 私もそうだった
 けして言ってはいけない、けして悟られてはいけない
 あの人はそれを許さない
 私もそうだった、いつも気持ちを押し殺していた
 自分にストップをかけて、暗示をかけて、戒めて、耐えた
 そして、たまに、一人で泣いたわ」
蒼太の目はぼんやりとしていて、どこか夢の中のような感覚でいた
仕事のこと、世界を知りたかったこと、知識を得て優越感を持ったこと
鳥羽のような仕事ができる人間になりたかったこと
いつも追いかけていたこと、認められたかったこと
そのために必死で、そのためにたくさんの人を傷つけてきたこと
知っていて、目を逸らし続けたこと
やがて、目をそらすことができなくなったこと
気づけばいつも、考えている
自分のせいで泣いた人、狂った人、絶望した人、死んだ人
死んだ人の流した赤い血
忘れられない呪いの言葉

なのに自分は生きている
あの人の側にいたいだなんて、浅ましく思いながら生きている

「私には、言っていいのよ
 一度全部吐き出してしまいなさい
 そうしたら少しは、楽になるから」
テレーゼの手が、優しく蒼太の髪を撫でた
あの人も、自分を子供扱いして髪を撫でる
たまに頬に触れたりして、意地悪く笑う
そのたびに心が捕らわれて、呼吸すら忘れて魂が震える
あの人の側にいられるなら、何でもすると思ってしまう
何でもするから、何でもするから
だから側に置いてください
「ねぇ、ゼロ
 よく考えなさい、そして答えを見つけなさい
 あなたは何を優先するの?
 どの想いを捨て、どの想いを持っていくの?
 どっちを選んでも苦しいでしょうけれど、自分で選んだのなら生きていけるわ
 私のように」
鳥羽に出会った瞬間に、鳥羽の側にい続けることを選んだテレーゼは 想いを押し殺して押し殺して生きてきた
想いが消えるわけもなく、
触れるたび、触れられるたび積もっても
それでも自分で決めたのだからと、耐え続けて今がある
けして言わない
けして悟らせない
だから、どうか側にいさせて
あなたの側にいたい
あなたに名前を呼んでもらうために
あなたにこちらを見てもらうために
「ゼロ、あなたは何を選び何を捨てる?
 自分で答えを出しなさい」
うつむいて、蒼太は無言で考えた
選択肢はたったの二つ
人の死を背負い、鳥羽の側に居続けるか
誰も傷つけないために、鳥羽の側を離れるか

カウンセリングが終った後、蒼太の精神状態はかなり不安定だった
「部屋から出ないようにしてね
 なるべく他人とあわないようにして」
医療施設の特別室に移されて、注意事項を聞きながら 蒼太ははい、とうなずいた
こんな風に 潜在意識を引きずり出して行うカウンセリングは、覚醒した後も精神の敏感な部分が表に出やすくなっている
だから、人と話をしたり、何かのきっかけで
その敏感な部分が不用意に傷ついたりすることが多い
大抵は軟禁状態で短期集中で行われるが、今回テレーゼが組んだプランでは全部で4日費やされることになっていた
カウンセリングというものが 一般的にはどうやって行われるのか蒼太にはわからなかったが
テレーゼのカウンセリングはかなりハードだった
終った今、全身がだるくて仕方がない
思考もあまりできないから、こんなときに他人には会いたくなかった
このままベッドに入っておとなしくしていよう、と
そう思って テレーゼを見送る
色んなことを吐き出して、だけどけして言えない言葉は 結局今日は言えなかった
明日はテレーゼの望むとおり、話すことができるのだろうか
言えば楽になるのだろうか
言えば何か、こたえが見つかるのだろうか
蒼太の想いを全て知らなければ 完璧なカウンセリングができないのだと彼女は言っていた
この身体を切り開いて、心を取り出して見せることができたなら簡単なのに
テレーゼになら、全て見せてもかまわない
この醜い想いも、醜い願いも、醜い感情全て全て
見せてもいいから、助けてほしい
もうどうしたらいいのか、わからない

鳥羽の側にいられなくなるなら、生きていても意味がない
人を傷つけてまで、殺してまで生きる価値が自分などにあるのだろうか

二つの思いが渦巻いて、
もうずっと前から蒼太は取り込まれて沈んでいる
答えなんか出るのだろうか
このまま壊れるまで、迷い続けて足掻き続けて
いつか狂って死ぬのだというなら、もういっそ そうなればいいのにと願ってしまう

その夜遅く、蒼太は組織の事務方に呼び出された
以前 蒼太が手伝ってまとめたデータが消えてしまったから、バックアップをもっていたら欲しいという用件だった
テレーゼに、他人には会うなと言われていたけれど
自分の部屋に戻って データをマシンから転送するくらいならかまわないだろう、と
そっと部屋を抜け出した
ロビーを横切って、サロンの前を通る
その時に、誰かが蒼太に声をかけた
知った声だったから、いつも鳥羽の側にいる誰かだろう
長期の仕事から帰ったばかりだと言っていたのはいつだったか
蒼太は2.3度しか話したことがない男
「ゼロ、久しぶりだな
 復帰したって聞いたぞ、良かったな、死ななくて」
明るい口調で彼はいい、その腕をぐい、とひっぱった
「あの・・・」
そのまま彼の足はサロンへ向かう
自分はサロンではなく 部屋に戻りたいのに
データを転送しなければならないのに
そう思いつつ、勢いに押されて中へと入った
深夜だからか人は少なくて、
なのに、奥のテーブルだけは いつものように賑わっていた
そこに 当然のように鳥羽がいる

「鳥羽さん・・・」
「よぉ、ゼロ
 カウンセリング始まったんだってな
 ダメだろ?こんなところにいたら」
鳥羽は顔を上げて、笑った
周りにいた男達が、なんやかんやと言葉をかけてくる
復帰おめでとう、とか
根性があるなとか
カウンセリングってどんなことするの、とか
顔色よくないぞ、とか
「しかし本当にゼロは災難だったな
 アゲハもよくやるよ、へたしたら死ぬとこだぜ」
「殺す気だったんじゃないのか?
 あれは思い込みが激しいからな」
「オレ 1回組んだことあるけど、わがままで大変だったもん
 どっか勘違いしてんだろ?
 自分をお姫様だと思ってるんだよ」
皆が口々に言うのを聞きながら そういえばアゲハはどうなったんだろうとぼんやり考えた
自分のことで手一杯だったから、一度も思い出さなかった
麻薬を抜く治療のときは、あの白い部屋に一緒にいたのだけれど
「死人を悪く言うなよ」
「あれはあれで、可愛いとこもあったんだから」
ぼんやりと、聞いていたから
思考がうまくできなかったから
聞えてきた言葉を 蒼太はすぐには理解できなかった
「人を落し入れといて自分が死んでたら意味ないよな」
「麻薬やってる奴は皆バカなんだよ」
言葉が頭に流れ込んでくる
戸惑って、鳥羽を見つめたら 鳥羽は煙草に火をつけながら温度のない声で言った
「アゲハは死んだよ
 治療に耐えられなかった」

治療を開始して4日目だった、と誰かが言った
皆、どうでもいい、という顔をしている
組織では、当たり前のことなのだろうか
仲間が死んでも心を動かさない
自業自得だとか
バチがあたったんだろう、とか
死を悼む声はひとつもない
「お前が傷つく必要はないんじゃないか?」
おかしそうに、鳥羽が笑った
「お前はあいつに殺されそうになったんだぞ」
「でも、僕は生きています」
「それはお前が足掻いたからだろ?」
「鳥羽さんが、待っててくれると言ってくれたからです」

心が痛かった
あの治療中、苦しかった
もう這い上がれないと思った
このまま死ぬなら、仕方ないと思っていた
だけど、鳥羽が言ってくれた言葉を思い出したから
戻ってこい、待っててやるから
その言葉が自分を生かしてくれた
あんな死の渕から、よみがえらせてくれた
アゲハには、そんな人がいなくて
ネロはさっさとアゲハを見捨て、組織はそのスキルだけしか見ていなくて
鳥羽は蒼太の側にしかいなかった
絶望した人間は、あんな苦しみを耐えて生きようなんて思えない
ただひたすらに、堕ちて堕ちて闇に食われる
「ゼロは変だよ
 オレならせいせいするけどね」
「嘆くことないだろ?
 気にすることもない、ゼロには何の関係もないんだから」
誰かが酒のグラスを蒼太の手に握らせた
氷の冷たさが、手の平に痛い
涙は出なかったけど、心がグラグラ揺れた
アゲハの気持ちを考えると、叫びだしてしまいそうだ
彼も鳥羽を想っていたのに
同じ痛みを、知っていたのに

次の日のカウンセリングでも、蒼太の心は最後の扉を開かなかった
かわりにアゲハへの想いに涙が溢れた
死というのは、どういうものなのだろう
一度 仮死というものを体験したことがある
あれと似ているだろうか
ただ冷たくて、何も考えなくて良く
静かに静かに呼吸を止める
せめて、アゲハの最期が 眠るように安らかだったらいいのにと思った
鳥羽の夢を見ていたらいいのにと、願った
死はいつまでも、蒼太の憧れで
けして届かない所にある

その晩、蒼太は部屋を抜け出した
昨日より精神は不安定だったから、部屋を出て他人と会うなどもってのほかだと言われていたけれど
どうしても、どうしても鳥羽に会いたかった
声を聞くだけでいい
姿を見るだけでいい
押しつぶされそうな不安が 自分を食い尽くすような感覚に いてもたってもいられなかった
名前を呼んでほしい
こっちを見てほしい
その手で触れて、触れて、触れて、触れて

サロンの鳥羽の周りには、昨日と同じ顔ぶれがいた
ただ一人、見たことのない男がいる
浅黒い顔の男
見た感じ、若いから年は蒼太と同じくらいか、それ以下か
誰だろう、と
視界の端に捕らえたら、彼は意地の悪い顔で笑った
「ゼロ、お前は何をフラフラしてんだ
 部屋を出るなと言われてないのか?」
咎めるような鳥羽の声がかかる
それに、体温が上がる気がした
会いたかったんです
顔を見たかったんです
声を聞きたかったんです
名前を呼んでほしかったんです
「ゼロ、聞いてるのか?」
鳥羽が持っていたグラスをテーブルに置いた
少し怒ったような声
震える、
たまらなく支配されていく
「カウンセリング中って他人と会わないほうがいいって聞いたけど?」
「ゼロ、鳥羽さんを怒らす前に戻れよ」
周りが 囁くように声をかけてくる
その中でひときわ、大きく響く声があった
知らない あの男
鳥羽の隣で酒を飲んでる男だった
「君がゼロ?
 鳥羽さんのパートナー?
 なんか今にも死にそうな顔してるけど そんなんで大丈夫?」
どくん、心臓が鳴った
誰?
何?
どういう意味?
ぞっ、と背筋が寒くなった
嫌な空気が流れていく
「リジュール、からむなよ」
誰かが笑った
リジュール、知らない名前
意地の悪い目で、こちらを見ている
ドクドク、と心臓が鳴った
言葉が出ない
「ゼロ、リジュールはな、新入りなんだ
 今日鳥羽さんが連れてきた
 昔、お前を連れてきたみたいな感じで」
優しい誰かが説明してくれた
鳥羽を見ると、煙草に火をつけている
「そんなんじゃ、次の仕事には行けないんじゃない?
 でもまぁ、大変な治療の後じゃ仕方がないか
 ゼロはゆっくりカウンセリングしてていいよ
 次の仕事はオレが鳥羽さんと一緒に行くから」
リジュールの、その言葉に グラグラと
心が揺れた
音を立てて破裂しそうだと思った
「鳥羽さん・・・」
声が震える
どういう意味ですか?
自分を拾ってきたように、彼も鳥羽が拾ってきたということか
だったら彼の教育は誰がするのか
鳥羽は、気に入った者しか相手にしない
その鳥羽がわざわざ連れてきたなら、彼の教育も鳥羽がやるということか

だったら自分は?
自分はどうなるのか?
こんなところで捨てられるのか
鳥羽にとって自分は 必要のない人間なのか

「ゼロ、何度も言わせるなよ
 部屋に戻れって言ってんだ
 リジュールのことは、お前には関係ないだろう」
冷たい言葉、
凍てつくような目に、頭が真っ白になってしまった
何も考えられない
何も考えられない
想いが渦巻いて、飲み込まれてしまう
心臓が握りつぶされたように、苦しい
ナイフでズタズタに切り裂かれたように、痛い
「鳥羽さん・・・っ」
がくん、と
身体に力が入らなかった
こみ上げてくる、何かが
どうしようもなく、行き場を求めて暴れまわっている
止められないと思った
どうしようもないと思った
どうしていいのか、わからなかった

「いや・・・、嫌です・・・っ」

搾り出すような声
頭蓋骨が割れそうなほどの頭痛
頭に血が逆流したみたいに、熱くてグラグラした
自分が何をしようとしているのか、わからなかった
もうどうしようもない
言ってしまったらおしまいなのに

「嫌です、嫌です・・・っ」

視界が曇る
涙が邪魔をして、鳥羽の姿がぼやけた
必死に首を振る
彼を選んで、自分を捨てるのか
彼を教育するために、自分とのパートナーは解消されるのか
一人になってしまうのか
捨てられてしまうのか
全ての意味を失ってしまう
生きる意味も、なくなってしまう
この苦しみの意味も、何もかもを失ってしまう
「嫌ですっ、嫌です、捨てないでください・・・っ」
ボロボロと涙がこぼれた
自分の声が ガンガンと頭に響いた
どうしようもなかった
言ったらおしまいだとわかっているのに
あれだけ自分に言い聞かせて、
あれだけ耐えてきたのに
必死に押し殺してきたのに

「ゼロってば、みっともないよ?
 仕事ができないなら、足手まといになるだけだろ?
 そんなのもわからないで鳥羽さんのパートナーやってるの?
 そりゃ、鳥羽さんに捨てられるよ」
クスクス、と
笑いの混じった声が頭上から降ってきた
体温が下がる
ざっと、血が引いていく音が聞えるようだ
「リジュール、お前は黙ってろ」
鳥羽の視線が彼の方を向く
それにまた、びりびりと心が震えた
嫌だ、そっちを向かないで
嫌だ、こっちを見て
嫌だ、そんな風に彼の名前を呼ばないで
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!!!

気づいたら、鳥羽の足元に崩れるようにして
蒼太は泣きながら、まるで喚くみたいに懇願していた
捨てないでください
捨てないでください
何でもするから
何でもするから、だからどうか
「鳥羽さん・・・っ」
涙でもう何も見えない
何も考えられない
心の奥底の、ずっと言えなかった言葉が 次から次へと溢れて止まらなかった
「お願いですから・・・」
こっちを見てください
ゼロ、と名前を呼んでください
お前だけがオレのパートナーだと言ってください
他の誰かなんて拾ってこないで
他の誰かなんか、必要としないで

「ゼロ、いいかげんにしとけよ」
ひく、と
まるで喉から血を吐く勢いで泣き喚いた蒼太に、鳥羽が冷たい声で言った
震える
どうしようもなく震える
魂が、砕けそうに痛い
この痛みで死ねればいいのに
こんな風に捨てるなら、殺してくれたらいいのに
「いいかげんにしろ、
 オレはお前を結構気に入ってんだ
 シラけさせるな」
心臓に突き刺さるような言葉だった
もう声を出すこともできず、蒼太はただただ鳥羽を見つめた
言ってはいけないとわかっているのに
止められないのだ
こうしている今も、想いが、痛みが溢れてくる
声を上げて、喚きたい衝動にかられる
自分が自分でコントロールできない
もうどうしようもない
「と、鳥羽さ・・・」
涙だけがぼろぼろとこぼれ続けた
どうしても、どうしても、この昂ぶりは抑えられなかった
カウンセリングの最中で、精神状態が普通じゃないのも、その要因だろうし
蒼太がこんな風に病んでいる原因が、そもそも鳥羽への想いなのだから
爆発してしまうのも、
コントロールできないのも、
自分ではもうどうしようもないのも、
必死に、言ってはダメだと思いながら、言葉が溢れていまうのも、
「おね・・、おねがいです・・・っ、とばさん・・・っ」
心が支配されているんです、あなたに
何よりも誰よりも、求めているんです
あなたの側に、いたいんです
そのためなら、何だってすると思っているんです
人を傷つけて、自分も傷ついて、人を殺して、なのに自分は生きながらえて
そうまでして、しがみついてきた
あなたの隣に
それを奪わないでください
奪うなら、捨てるなら
今すぐここで殺してください

「可愛そうなゼロ
 鳥羽さんが、そういうの嫌いだってわかんない?」
可笑しそうに、リジュールが笑った
誰かがそれを咎めるように言葉を返す
もう何もわからなかった
もう何もわからなかった
もう何も、わからない

「ゼロ、顔を上げろ」

魂に響く声
支配者の声
言われるままに、蒼太は顔をあげて鳥羽を見つめた
呼吸が乱れている
息苦しい
わめいたから、喉が痛い
頭もガンガンして、上も下もわからない
「オレはお前を気に入ってる
 だから今回だけは許してやる
 次、そんな戯言吐いたら捨てるからな、よく覚えとけよ」
煙草を揉み消す指
それが、テーブルの上のピルケースを取った
グワン、グワンと音が響いている
涙で濡れた目は、鳥羽だけを映している
他には何も、何もいらない

ピルケースの中の錠剤を1粒取ると、鳥羽はそれを蒼太の口に入れた
そしてテーブルの上のグラスを取ると、一口あおる
そのまま、冷たい唇でくちづけられた
液体が喉に流れ込んでくる
眩暈がした
鳥羽に、こういうことをされたのは、初めてで
ただもうわけがわからなくて、思考が停止した
言葉も、熱も、何もかもが、粉々になって砕けると思った

「ひっ・・・・・・・・・、ぐっ」
鳥羽に口移された液体と一緒に飲み込んだ錠剤は、普段鳥羽が服用している毒だった
蒼太の飲んでいるものよりも、遥かにきつい毒が みるみる間に全身に回る
一瞬で、視界が真っ暗になった
喉がひきつる
呼吸ができない
ゼーゼーと、空気のからんだ音がして、ビリビリと喉が焼けた
「い、あ、あ、あ、・・・・・っぐっ」
震える
何も考えられなくなる
苦痛だけが支配する
頭を砕かれる頭痛に、もがいた
もがいて、もがいて、床に崩れ落ちる
必死に床をかいた
それでもどうにもならなかった

「頭を冷やせ
 それだけ苦しけりゃ、余計なこと考えなくてすむだろ」
言い捨てるような言葉が降ってくる
それが鳥羽の、最後の優しさなのか
苦痛が心の揺れをぴたりと止めた
何も考えられない
言葉を発することができない
それは、これ以上 鳥羽の嫌う言葉を吐かなくてすむということか

「鳥羽さんって優しいな
 優しくて残酷、悪魔みたい」
床に崩れて喘いでいる蒼太を、リジュールが抱き上げた
「かわいそうだから、虐めてしまったお詫びに部屋に連れて帰っておきます」
そう言って去るのを 鳥羽は黙って見送り
周りの皆は、苦笑したり、溜息をついたり
鳥羽の様子を伺ったりして、誰も言葉を発しなかった
足音が遠ざかる
カチ、
ライターの音だけが、苛立ったように響いた

「本当に、鳥羽さんは君のこと気に入ってるんだな」
途中、失神した蒼太は、部屋のベッドに下ろされた途端覚醒した
身体を中から溶かすような痛みが どうしようもなくうごめいている
もがいても、もがいても、その痛みからは逃げられなかった
「ひっ、い、い・・ぐ・・・・っ」
捕まれた腕を振り払おうと、無意識に暴れている
それを 強い力で押さえつけられ彼のネクタイで縛られた
ベッドと両手を固定され、身体の自由が利かなくなる
「ひっ、ひっ、・・・・あぁぁぁああっ」
苦しかった
でも、意識はあった
目の前の男が、憎くて憎くて仕方がなかった
苦しくて、苦しくて、痛くて、痛くて、嫌で、嫌で、嫌で、嫌で
「あぁぁぁああっ」
喉に血がにじんでも声を上げ続けた
自分がマトモだったら、こんな苦痛には耐えられないのに
もうとっくに、死んで楽になっているのに

「オレが本当に興味あるのは、君の方だよ、ゼロ
 別に鳥羽さんが好きなわけじゃない、君みたいなのが欲しいんだ
 君みたいに盲目的に慕ってくれる人間を虐めるのはさぞかし快感だろうね
 オレは鳥羽さんがとても、うらやましいよ」
リジュールの手が、自由のきかない蒼太の身体をまさぐっていく
撫でるように、背中を、腰を這い回る
嫌悪に、身体が冷たくなった
震えが止まらなかった
何がなんだかもうわからないのに、
これ以上ないというほどに、もうボロボロなのに
この上 何をするというのか
何をしたいのか
お前などに、触れられたくないのに
触れられたくないのに

「い、い、いや・・・っ、いやっ、いやっ、いやだ・・・っ」
蒼太の身体を押さえつけ、リジュールは中へと腰を進めた
苦痛に濡れる身体に、満足気に喉を鳴らす
「思ったとおり、いい反応するね
 鳥羽さんに仕込まれたの?
 どんな風に抱かれて、どんな風に声を出した?」
奥を何度も突き上げながら 同時に濡れているものを手に握りこむ
悲鳴を上げて、蒼太は背を逸らした
鳥羽と同じ抱き方をする
後ろから、支配するように犯すのが、たまらなく嫌で、嫌で、どうしようもなかった
こんなに嫌悪する相手は他にいない
こいつに触れられるなら、身体中切り刻まれたほうがマシだった
嫌だ、触るな、触るな、触るな、触るな・・・・!!!!

「嫌だ、離せ・・・っ、離・・・・・」
もうわけがわからない
痛みなのか、苦痛なのか、快楽なのか、疼きなのか、何なのか
嫌悪する相手に犯されて、感じる身体って何だ
それはもう自分のものじゃない
ただのモノだ
そんなもの、自分はいらない
もういらない
「イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤいやいやーーーーーーーーーーっ」
ギシギシ、とベッドが嫌な音を立てた
耳元で 囁かれる
吐きたくなるような言葉を
世界の全てを呪いたくなるような言葉を
狂いそうになる
いっそ、狂ってしまえばいいのに

「でも、さっき言ったことは本当だよ
 君がそんなんじゃ、近いうちオレが鳥羽さんのパートナーになるよ
 君を虐めるにはそれが一番だもんね
 君が泣くのを見るとゾクゾクするよ、たまらない」

世界が、ただの闇になって
蒼太は、一瞬呼吸を止めて、そのあとゆっくりと意識を落とした
このままもう目覚めなければいいのに
そうしたら、二度とこんな苦しみを味わうこともないのに
そう願いながら、手放した
意識と、自我と、想いと、痛みと、それからいろんな大切なものを

次の日のカウンセリングで、蒼太の最後の扉が開いた
「あのひとのそばにいたいんです」
「ぼくはあのひとのそばにいたい」
「そのためならなんでもする」
「でもぼくはだれかをきずつけたりころしたりするのがいやです」
「ひとをかなしませるしごとをしてまでして」
「あのひとのそばにいたいのか」
「わからない」
「そばにいたいけど」
「わからないんです」
「だけどもうあのひとなしではいきているいみがなくて」
「ぼくはあのひとをもとめているんです」
「こんなみにくいこころで」
「こんなみにくいいのちで」

こたえなど出なかった
ただただ、生きているのが苦しいと思った
世界は狭くて息苦しくて、欲しいものには手が届かない

「ゼロのカウンセリングは終ったのか?」
「終ったわ、無事に、とはいえないけど」
蒼太の病室の前で、鳥羽は大袈裟に溜息をついた
自分を睨みつけているテレーゼに苦笑する
「悪かったよ
 だけどオレは何度もあいつに、部屋へ戻れと言ったんだぞ」
「どうしてリジュールを黙らせてくれなかったの?
 私、ああいう子は嫌いよ」
「テレーゼに嫌われたら、あいつもここでは長くやれないな」
「あなたも、嫌いだわ
 ゼロをこんな風に傷つける人は、嫌いよ」
「・・・妬けるねぇ」
苦笑、それからライターの音
鳥羽の吸う煙草の煙が ゆらゆらと廊下を漂っていく
「次の仕事は結局どうするの?」
「リジュールでも、ゼロでも、オレはどっちでもいいけどな
 どっちにしろ、カウンセリングのデータがいるだろ
 準備できてるよな」
「そんなものはいくらでもあるわ
 お好きなものをどうぞ、どれでも持っていって」
テレーゼが鳥羽を見上げた
痛みに耐えるような目をしている
その頬に手を触れて 鳥羽は苦笑した
「機嫌を直してゼロに聞いておいてくれよ
 あれが行くっつったら、ゼロをつれていくから」
「・・・わかったわ」
頼んだ、と
鳥羽は言い去って行き、テレーゼはもう一度 病室に入った
蒼太はベッドに横たわって、ぼんやりと天井を見つめている
まるで死んだ魚のようだと思った
何かを諦めて、最後の覚悟を決めた組織の人間は みんなみんな、こんな目をする
枯渇しているような目をする

「ゼロ、起きてるなら聞いてちょうだい」
「・・・はい」
蒼太は、テレーゼの言葉に上体を起こした
カウンセリングが終ってから、蒼太はすぐに眠りについた
今まで 眠れなかったのが嘘のように深い眠りに落ちていった
さっき目を覚ましたところで
鳥羽に与えられた毒も抜け、リジュールに犯された身体の痛みも消えていた
「そのままでいいわよ、辛いでしょう?」
「大丈夫です、眠れましたし・・・」
蒼太の目に自分の姿が映るのを見ながら テレーゼはベッドに腰掛けて蒼太の手を取った
同じ想いを抱いて生きている、魂の同志
罪を共有している者
鳥羽への想いに 自滅しそうな危なっかしい存在
彼が何を諦めて、こんな目をしているのか
テレーゼだけが理解している
テレーゼにしかわからない
「祐二がね、次の仕事に行けるかどうか、聞いておけと言っていたから
 あなたに聞くわ
 出発は2日後だけど、行ける?」
触れた蒼太の手が、ぴく、と動いた
「行きます」
すぐに返事が返ってくる
「そう、だったらそう伝えておくわ
 仕事内容は祐二から聞いて頂戴
 出発までの2日間は、その仕事の準備になるからそのつもりで」
「はい」
蒼太の目に 何か複雑な色が浮かんだ
喜びか、痛みか、その両方か、
テレーゼは優しく微笑して、立ち上がった
こたえなど、一生でないと知っている
悩み続けて、傷つき続けて、人は何かを選びながら生きていくのだと
だから、もう何も言わない
覚悟を決めた蒼太は、自分の足で歩いていくのだから

その夜、鳥羽が部屋に来た時 蒼太は落ち着いて頭を下げた
「すみませんでした・・・」
鳥羽を前にすると、体温が上がる
ドクドクと、心臓が鳴る
まるで今まで生きていなかったみたいで、
鳥羽を前にして、生き返ったみたいに
「過ぎたことはいい
 それより仕事の話をしに来た
 難易度はSS
 お前の役がかなりしんどい
 成功したらAランク認定は間違いないって位の高度な依頼だ」
ベッドの上に ポンとDVDが置かれた
「ターゲットは、現在組織で精神科医として所属してるDr.ロマ
 2.3前から奴は組織の人材をよそに流してる疑いがあってな
 いいかげん、被害がひどいってんで、組織は奴を潰すことに決めた
 お前は精神を病んでるフリをして、Dr.ロマにカウンセリングを受ける
 受けながら、組織を裏切ってる証拠を探せ
 相手はプロで、かなりの腕を持ってる
 騙すには相当のスキルがいる
 それをこの2日で、叩き込め
 無理なら、リジュールにやらせる」
最後の言葉にドクン、と
心臓に痛みが走った
「やります・・・」
「やりますじゃ物足りないな」
「やれます」
「OK
 それはお前のカウンセリングのビデオ
 テレーゼが言うには、他人を演じるより自分を演じた方がやりやすいだろうってこった
 自分のカウンセリング風景なんて見て正気でいられるのかどうか、オレは多少不安だがな」
やると言ったからには、失敗は許されない、と
鳥羽の言葉に蒼太はうなずいた
「やれます」
DVDを手に取った
わずかに震えたのを、叱咤する
何でもする
何でもする
今の自分に、できないことなど何もない

「ああ、あとな」
部屋を出る直前、鳥羽が振り返って苦笑した
「リジュールは他組織から引き抜いてきた人間だ
 オレが教育するまでもなく すでにAランク認定済み
 パートナーはまだ決まってないが、お前がAランクになるなら わざわざアレをオレのパートナーにする必要はないわな」
その言葉に、ドクンと
熱が胸の中で渦巻いた
泣きそうになる
だけど、涙は涸れてもう出なかった
仕事でなら、いくらでも流せるだろうけれど、正気の時には乾いている
鳥羽の与えた毒で、何かが死んだから
毒の苦しみと心の痛みにボロボロのあの時 嫌悪するリジュールに犯されながら諦めたから
涙は涸れた
心は乾いて、枯渇している
「明日からテレーゼが演技指導してくれるってさ」
言って、鳥羽は部屋を出ていった
ただ1人、蒼太だけが残される
うつむいて、そっと息を吐いた
心が重くなったけれど、あの身を灼いた激しい波はおさまっていた
静かに目を閉じる
物音は何も聞こえなかった


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