ZERO-35 痕を残す(蒼太の過去話)



ロマが初めて蒼太を診たのは、村のさびれた駅だった
夕方、そろそろ暗くなる時間
遠ざかる列車をいつまでも見つめている横顔から目が離せなかった
天気予報では、今夜は雪が降るといっていた
この村は、一週間に1度くらいは雪がふる
いつもたいして積もらないけれど、この時間には寒くて凍えそうになる
あんな風に立っていると、身体はあっという間に凍えるだろうに、蒼太はさっきから少しも動かずに何かを見ている
「ゼロ・・・」
声をかけてみた
蒼太の視線の先には、何もない
列車はとっくに行ってしまい、音すらも もう聞えないのに
何を見ているのか
何を追いかけて、いるのか
「ゼロ」
ロマが2度声をかけると、蒼太はようやく振り向いた
「私がロマだ、組織から話は聞いてるよ」
「・・・ゼロです、宜しくお願いします」
にこ、と
笑ってみせた蒼太の顔に、ロマはわずかに苦笑した
さっきまで泣きそうな顔をしていたのに、
何かを見つめて、待ってるみたいな顔をしていたのに、
明らかに今、装った
その笑顔、声のトーン、
ロマに心配をかけまいとしたのだろうか
偽った蒼太の様子に、けなげな男だと、感じた
こういう人間は、ロマの心に深く痕を残す

4日前にロマに届いた組織からの依頼書には、一人の男のカルテが添付されていた
それが 今目の前に立っている男
捨てられた犬みたいな目をした、ゼロという名の男
組織に精神科医として所属しているロマのところには、色んな患者がやってくる
依頼主はいつも組織で、
まだ使える駒の修理を依頼するような淡々とした文章がロマの元に届く
組織で働く者は皆、道具ではなく人なのに
機械ではなく人間なのに
組織はそういう風には考えていない
心を病んで使い物にならなくなったら捨て、
まだ使えると思ったら「治してくれ」と言ってくる
組織は人を見ていない
可愛そうな患者は増える一方
仕事で心を病んだもの、薬で精神が壊れたもの
皆、組織で色んなものを失い、色んなものに捕らわれ、色んなものに落ちていく
そういうのを 診続けてきた
そしてロマ自身が、そういうのに そろそろ我慢ができなくなってきている
「君の主治医のテレーゼから手紙を貰ったよ
 君を宜しくと書いてあった」
彼女は元気か?と
声をかけたら 蒼太はロマの目を見つめて それから穏やかに笑った
「元気です、あの人にはいつもお世話になっています」
その口調から、蒼太がテレーゼを信頼していることが読み取れる
テレーゼは元々、組織の駒として前線にいた女だ
聡明な目で見つめられた時、ロマの心は一瞬で捕らわれた
なんて綺麗な少女だろうと思って、その目のまっすぐさに吸い込まれるように魅かれていった
その頃のロマは、組織の施設内で精神科医として皆の面倒を見ていたから たまにテレーゼも医療施設へとやってきて、傷の手当てのついでにロマと話をしたりした
向上心が高く、自分をよく知っており、客観的に人や世界を見ることができる少女だった
毎日の勉強が楽しくて仕方がないと、笑っていたのがとても心に残っている
訓練はきついだろうに
身体を毒に慣らすのも、武器の扱いを覚えるのも、言語を習得するのも辛いだろうに
泣き事など一つも言わずに毎日を過ごしていた
そして、組織の中で どんどん実力をつけていった
その間 ロマはテレーゼを見つめ続けた
特別な、愛しさのこもった視線で
「いい医者に当たったね
 彼女はあの組織の医者で一番の人材だ」
「はい」
「相変わらず綺麗なんだろうね」
「はい」
うなずく蒼太の様子を診ながら、ロマはわずかに苦笑した
ロマのスキルは、人の心を読むことで
口調や、顔色や、表情や、呼吸の仕方、視線、その他の色々なものから患者の心を読み
患者が病んでいる理由を探り 解決法を見つけるのが仕事
可愛そうな患者達を、治してまた、組織へ送り返すのが役目
多額の報酬を組織から受け取り、また病むのであろう世界へ せっかく治った人間を送り出す
「寒いだろう?家えかえろう」
「はい、お世話になります、先生」
蒼太は、礼儀正しく頭を下げた
テレーゼからのカルテには 蒼太について色々な情報が書かれていた
日本人の男、21歳、組織に入って2年程度、ランクB
パートナーの名は鳥羽祐二
それで、ピンときた
彼に関わって、彼のパートナーであり続けて正常でいられる人間なんていない
鳥羽を認められない者は、長くパートナーではいられないし
逆に、鳥羽の側に長くいられる者、またはいたいと思う者は 少しずつ正常でなくなっていく
何かを失って
何かを狂わせて
まるでゆっくりと、少しずつ、その身をナイフで削っているみたいに痛みを甘受し続ける
ロマの目から見て、テレーゼもそうだった
いつか一人で泣いていたのを見たことがある
あれは冬の明け方だったか
彼女は押し殺した想いに泣いていた
恋の辛さに我慢できなくなる瞬間があると言って
その度にロマの心はギシギシと痛んだ
なぜ、あんな男がいいのかと 心の中で何度も思った
「夕食はクリームパスタを作ったよ、君の口に合えばいいけど」
「ありがとうございます、パスタは大好きです」
にこ、
また蒼太が笑ったのを診ながら ロマは寒さで赤くなった蒼太の頬に手を触れた
一瞬、驚いたようにロマを見上げた蒼太は すぐにその目をゆらゆらと揺らしてまた笑ってみせる
よく笑う男だと思う
意識して、というよりは もう反射的にそうなっているのだろうか
組織の人間は、仕事の際 色んなものになりすます
相手を信用させるために、演じることも多い
相手に気に入られるために、相手の好む者であるよう行動することも多い
だから、いつしかそれが染み付いていくのだろう
目の前で笑う蒼太は、痛々しく感じた
君は患者で、私は精神科医で
君は心を病んだから、ここにいて
だから 医者の前でまで、装わなくてもいいのに
演技しなくても、いいのに
「食事をしながら話をしよう
 私は普段は学校で子供達に勉強を教えているんだよ
 もしよかったら、君も明日 学校においで」
はい、と
隣を歩きながら 蒼太は素直な返事を返した
かわいそうな男
かわいそうな患者
その心の傷を癒してやることが、自分の仕事だと
ロマはそっと苦笑した

ロマの家は村の奥にある
学校はそこから歩いて5分のところ
わざわざ組織の施設を出てこんなところで仕事をしているのは この環境が患者の心のケアにいいと判断したからと、
あの組織に、もういたくなかったからと、両方の理由だ
「君はここに心を癒しに来てるんだから、仕事のことは忘れていいよ」
「はい」
蒼太は、ロマの作った夕食を おいしいと言って全部食べ、
片付けを手伝って 今 コーヒーを飲みながら 大人しく座っている
扱いやすい患者だと思った
日本人は大人しいと聞く
他者に従順で、よくわきまえ、自分の感情をあまり表に出さない傾向がある
蒼太がそれにぴったり当てはまるのか
それとも、そう無意識に演じているのか
聞いたことには素直に答え、声をかければ穏やかに返事をする様子は 一見して精神を病んでいるようには見えなかった
テレーゼからの手紙には、仕事のストレスで不眠症になっていると書かれていた
それ以外にも、この2年の間に2度 麻薬中毒になりその治療を受けていること
現在服用している毒の種類
先日まで負っていた傷のこと、治療に使った薬のこと
蒼太の身体は薬というものに弱くて、様々な副作用が出ること
それが多少は精神状態に影響しているかもしれないこと
手紙を読みながら ロマは呆れた
そして、組織に怒りを覚えた
あまりに酷い扱いだ
この患者の身体はきっとボロボロで、
つい先日まで 麻薬を抜く治療をして、その後すぐにここに送られてくると書いてあったから余計
一体どんな状態の人間が来るのかと思っていた
廃人のようになっているのか
もしくは、凶暴な獣みたいになっているのか
他者を寄せ付けないピリピリした空気を漂わせているのか
「君は何をするのが好き?何に興味がある?
 ここで何をして過ごしたい?」
蒼太は、わずかに考える素振りを見せて それから本、と答えた
「僕は本を読むのが好きです」
落ち着いた答え
テレーゼの手紙に書かれていた状態から想像できないほど 蒼太はまともだった
あまりに思っていたこととかけ離れすぎて、最初戸惑ったほど
あの駅で蒼太を見つけたとき、すぐに声をかけられなかった
こんな風な人間が、来るとは思っていなかったから
「本当はパソコンで情報を集めるのが好きなんですけど、ここでは禁じられると聞きましたから」
また、蒼太が笑った
見る相手に心を許させるような、開かせるような、安心感を与えるような笑顔
なのに、目はとても不安そうで
ある種の人間が見たら、そのアンバランスさに心を魅かれるだろう
守ってやらなければ、とか
助けてやらなければ、とか
そういう気持ちにさせる何かを、蒼太はもっている
危うい何かだ
それは、多分蒼太の中の諸刃の剣の象徴だ
「わざわざ私がこんな山奥で治療をするのは、外界から離れるためだからね
 電話とパソコンは、禁止させてもらっているよ」
「はい」
だから、本を読みたいです、と
蒼太の言葉にロマは笑った
本なら地下室に山ほどある
半分くらいは医学書だったり心理学の本だったり、書きかけの論文だったりするけれど
中には地方の童話とか、歴史の本とか、色々あるはずだ
元々この家を使っていた人の蔵書がそのまま残っているし、ロマ自身も外国の本を集めたりするのが好きだった
蒼太がここにいる間、暇を持て余すことがない位の量はあるだろう
「何語が読めるのかな?
 ドイツ語の本が多いよ、あとはイタリア語、ラテン語、スペイン語、タイ語」
問いに、蒼太は笑った
「ラテン語とドイツ語は読めません
 中国語なら、少し」
それで、ロマも笑った
「この間 旅商人が持ってきた中国語の古い本には人間のツボについて書かれていたよ
 リラックスのツボを、あとで二人で探してみようか」

その晩、遅くまで二人はロマの寝室で中国の古い本を見ながら色んな話をした
テレーゼからの手紙にあるように、蒼太はいつまでたっても眠そうな素振りは見せず
興味深そうに本の文字をなぞっていた
「学校は朝の8時からはじまる
 午前中で終るから、その後は昼食を取ってカウンセリングに入るよ
 ゼロは、カウンセリングは受けたことがある?」
「ありません
 組織に精神科医がいるなんて初めて知りました」
「何も怖がることはないよ
 君の心に触れて、君の心を共有したいんだ
 私に心を開いてほしい」
「はい・・・」
窓の外では、夜が明けようとしている
おとなしい蒼太は、また本に目を戻した
今、何を考えているのだろう
穏やかな様子は全て演技なのか
それとも、この一見普通に見えることこそが 彼にとっての不運で
だからボロボロになるまで見過ごされ、放置され
こんな山奥で集中的に治療するまでに悪化したのか
「ゼロ、夜があける
 早めの朝食を取って、早めに家を出ようか
 今日は学校の掃除をしよう
 子供達がすぐに汚してしまうけど」
いつまで待っても、蒼太は眠らないだろう
ロマの言葉に顔を上げて 読んでいた途中の本をそっと閉じる
そうして、もう聞きなれた返事をした
「はい」
穏やかで、優しげな声
聞く者に 不思議な感覚を与える返事
これは、人の支配欲か
何かをかきたてられながら ロマは立ち上がった
従うように、蒼太も続く

その日、蒼太は学校ですぐに子供達の人気者になった
優しくて物知りな年上の蒼太に、男の子はなつき、女の子は花をプレゼントした
差し出された黄色い花は、この寒い時期には貴重なのに
蒼太の心の傷がわかるのか、その子は心配そうに蒼太のことを見つめていた
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫ですよ、花をありがとう」
蒼太が笑うと、子供達は安心する
だから、いつも笑っているのか
だから演じ続けるのか
「ゼロ、よかったね
 それはあの子の宝物の花だよ」
「いいんでしょうか、こんな貴重なものを貰っても・・・」
「君には、あげてもいいと思ったんだろうね」
そう言ったら、一瞬蒼太は泣きそうな顔をした
そして、手の中の花を見て 笑った
泣いてるみたいな笑顔だった

「さぁ、ゼロ
 最初のカウンセリングをはじめよう」
その日の昼、ロマは蒼太を自分の寝室へ呼んだ
テーブルには紅茶とケーキ
室内には、穏やかな音楽がかかっている
「目をとじて、私に心を委ねてごらん
 何も怖がることはない、何も考えなくていい」
言われるとおり、目を閉じた蒼太は ソファに座ったままわずかに呼吸をした
ロマの声は、特殊で催眠効果がある
ある程度は訓練でものにできるけれど、生まれつきの声質というものか、
ロマはこういう仕事に向いていた
使いようによっては、集団催眠にかける宗教の教祖や、演説で人の心を掴む支配者にもなれたかもしれない
「まず、確認からしよう
 君の名前は?」
ゆっくりと、蒼太は催眠状態におちていく
相手に逆らう気がないから、術は簡単にかかるのだろう
言われたとおり心を開いた蒼太は、今や眠りに近い感覚の中 潜在意識を呼び起こされている
「ゼロです・・・」
「君は普段 何を考えている?
 一番よく考えてることを、教えて」
少しの間をあけて 蒼太が息を吸った
「こたえを・・・出そうと思って・・・」
また吐息、それから沈黙
「どんな問いに対する答えかな?」
優しく語り掛けると、蒼太はわずかに悲しそうな顔をしてみせた
この治療法は有効だ
これで何人もの心の傷を見てきた
そして、解決策を考えてきた
迷っている人間にこたえを与えるのがロマの仕事
暗い闇に落ちた人間を 光のある場所に引き上げるのがロマの仕事
そう思いながら いつも患者を見ている
かわいそうな患者を見ている

「どうしたらいいのか、考えているんです・・・」
悲しげな顔は、いつまでも悲しげなままだった
「僕はどうしたらいいのか、考えています」
そして、答えが出ないのだと
まるで嘆くみたいな呼吸が、しばらく続いた
「どうしたいのか、言ってごらん」
そっと、その手を取った
ぴく、と蒼太の肩が震える
出会った時から思っていた
彼は触れると少しだけ、怯えたような反応をする
「どうしたい・・・か?」
「そう、君はどうしたいのか」
蒼太の手が、震えだした
眉が寄り、悲しげな顔が ますます歪む
「僕は・・・」
声が震えた
かわいそうだと、また思った
潜在意識の底でさえ、まだセーブしようとする蒼太に
心を解放できない蒼太に 胸が痛んだ
普段、どれほど自分を抑えているのだろうか
想いを言葉にすることを ひどく怖れているような気がした
「僕は、ただ、側にいたいだけなんです・・・」
怯えたような声
何かとても悪いことをしているかのように、その声は不安げで震えていた
こういう患者を今までに何人も見てきた
組織には色んな人間がいる
仕事は特殊で、心を許せる者は少ない
そんな中、人は一人では生きていけないから
必ず「誰か」を見つけるのだ
自分の中で特別になる、何かを見つけて依存する
「側にいたいなら、側にいればいい
 誰かを特別に想うことは、何も悪いことではないよ」
答えは簡単なのに、自分達をとりまく環境に絶望してしまう人間が組織にはとても多い
それは、組織の者が生きるその世界が限りなく狂気に近いものだからか
「でも」
蒼太は俯いた
歪んだ顔が 隠されて見えなくなる
「でも僕は、本当は誰も傷つけたくないんです」
口調が少しだけ強くなった
患者の言葉は支離滅裂で 色々に飛ぶ
「誰も騙したくない、誰も殺したくない、誰も泣かせたくない」
少しずつ、身体が震えだした
わずかに間があいて、それからぴくりと手も震えた
「痛くてもいい、辛くてもいい、苦しくてもいい、息ができなくてもいい
 僕はどうでもいいから、だから」
他の人は、と
蒼太が言ったとき 部屋にかかっていた音楽が途切れた
レコードが終ったか、と思いつつ蒼太を見遣る
始めから あまり長くカウンセリングを続けると 心に余計な負担がかかるからロマは音楽の長さでカウンセリングの時間を計っていた
最初の、対話は終りだ
曲がやめば、蒼太の催眠状態も解けるだろう
「・・・っ」
急に顔を上げて、蒼太は驚いたような目でロマを見た
目がゆらゆら揺れている
泣きそうな顔だと思った
蒼太の手は、まだ震えている
「誰かが痛いのや泣くのは・・・嫌です・・・」

す・・・、と頬を滑っていく涙に ロマは苦笑した
たくさんの患者を見てきた
組織の仕事は倫理に反する
だからこそ、多額の報酬が約束される
プレッシャーに押しつぶされ心を病む者
自分の仕事の結果に心を痛め、病む者
報われない想いに泣き、病む者
生きることから逃げ出して、抜け殻のようになって病む者
本当にたくさんの、色々な患者を見てきた
皆、ただの人なのだから
どんなに訓練したって、心を鉄の鎧で守ることはできないのだから
「君は自我に目覚めようとしてるのかな」
ロマの言葉を、蒼太が聞いているかどうかはわからなかった
目をとじて、ただ泣いている
そんな蒼太の手を撫でながらロマは誰とへもなく続けた
「例えば何かに夢中になったら周りが見えなくなる人がいるとする
 その人は、何かをなしとげるためにどんな犠牲も払ってきた
 一生懸命やってきた
 その何かは、なしとげられた
 だけどある日ふと気づく
 自分が成し遂げたことによって、隣の誰かが悲しい思いをしていることに
 その時、彼はどうするのだろう
 自分のしたとこを悔いて泣くだろうか
 そんな彼に、彼の仲間は何と言うだろうか
 もうやめてもいいよ、というか
 素晴らしい出来なのだから、もっともっとやりなさいと言うか」
組織の人間は色んなものを割り切って生きているはずだ
皆、蒼太のような思いを持ってる
依頼主のためになる仕事でも、そのために誰かが泣く
誰かが傷つく
時には命をやりとりする
この世界は狂っていて、激しくて
そこで生きていくには、それなりの知識と強さと、覚悟がいる
人を殺す覚悟
命を懸ける覚悟
自分を見失わない覚悟
そのために、皆 何かを諦めて、何かを忘れようと努力する
考えないようにして、自分を守る
過ぎたことは忘れて、正常を保つ
「君には最後の覚悟がないんだね
 だからそうして泣いてるんだ
 優しい君は 人が傷つくのが嫌で
 だけど、仕事を命じる声に、かなわないんだね
 逆らうことができないんだね」
自分を見失わない覚悟
それは、自分を守る覚悟だ
蒼太のように、自分はどうなってもいいと思っていてはいけない
自分を大切にしていないから、こんな風に板ばさみの感情に狂わされていく
病んでいく
「自分優先でいいんだよ
 皆、そうやって生きてるんだから」
側にいたい人がいるなら、ずっと側にいたらいい
誰かを傷つけるのが嫌なら、傷つけたことを忘れればいい
もしくは、傷つけないよう仕事をすればいい
「・・・難しいです・・・」
音楽が止まって、わずかに催眠状態から戻ったのだろう
ロマを見つめた目は涙に濡れていたけれど、はっきりとした口調で蒼太はつぶやいた
「それは、とても難しいです
 傷つけないように、するなんて・・・」
「そうだね、難しいね
 だから誰もそんな風には生きられない
 だから皆、忘れて目を逸らして生きていくんだよ」
それがずるいことだとわかっていても
醜いことだとわかっててても
「自分のことを考えなさい
 自分が正常でいられることが、何より大切だと私は思うよ」
頬に流れた涙をぬぐってやると、蒼太ははじめて自分が泣いているのに気づいたというような顔をしてそれから慌てて俯き、わずかに苦笑した
心が痛む
かわいそうな患者を前にすると、ズキンと痛む
迷っていると言った
こたえが見つからないといった
なら、蒼太が答えを出す日がきたら、彼は組織に戻っていくのだ
狂った世界に戻っていくのだ

2日目のカウンセリングでも、蒼太は昨日と同じことを言っていた
答えが見つからない
どうしていいのかわからない
(昨日の私の言葉は、彼の望むものではなかったか)
様子を診ながら 会話を続ける
昨日より少し深く、長く、潜在意識と会話をする
「僕は僕に聞かれます
 本当に・・・?、って・・・」
蒼太は笑い泣きのような顔をして言った
どこかで精神が分裂しているんだろうかと思いながら その様子を注意深く観察する
相変わらず蒼太は、声を荒げることなく座っている
カウンセリングが嫌だとも言わないし、質問にも素直に答える
言えば何でもするんじゃないだろうかと思うほど、蒼太は素直で従順だった
「本当に?とは?
 彼は何を疑ってるのかな?」
問いかけてみた
また蒼太の頬を涙が伝う
泣くほど悲しいことがあるのか
泣くほど苦しいことがあるのか
それを言葉にすればいいのに
そうできないから病んでいくのか
言ってはいけないと、思っているのか
「本当に、僕は・・・」
それ以上の言葉は出なかった
観察は続く
カルテへの書き込みが増えていく

3日目、学校が休みだっから 蒼太は朝からずっと本を読んでいた
書庫になっている地下室にこもりっぱなしで、心理学の本のページをめくる
仕事の本はほとんど蒼太の読めないドイツ語で書いてあったから、読めるのはほんの2.3冊だけ
それをめくりながら、何を考えているのか
時折ぼんやりして、俯いたり、天井を見上げたり
そっと溜息をついたりして、過ごしている
「君は集中力がすごいね
 私が下りていっても、気づかなかったね」
「え・・・っ、すみません・・・っ」
「いいよ、何かに夢中になるのは悪くない
 好きなことをしていいんだから
 自分のことだけを大事にしていい」
その言葉に 蒼太は笑って小さくうなずいた
ここに来てからまだ一睡もしていないようだったけれど、顔色はさして悪くはなかった
たいていの患者は、1週間治療を受ければ眠れるようになる
ロマは名医だったし、経験も豊富だった
見立てでは、蒼太も あと何回かカウンセリングすれば その核心に触れさせてくれると感じている

5日目、ロマはもう一歩 蒼太の中に踏み込んだ
けして言えなかった言葉を引き出すことに成功した
初めから蒼太は泣いていて、声は震えていた
激しい感情、それを必死に抑えている様子
見つめながら 心が痛んだ
あまりにも、不毛で
あまりにも、優しすぎると思ったから

「僕は、あの人の側にいたいんです」
その言葉は、カウンセリング中 もう何度か聞いた言葉だった
「あの人の側にいるためなら、何だってします
 それがどんなに辛くても」
その言葉も、よく聞いた
「そう、思ってました」
涙が落ちる、声が震える
蒼太は目を揺らして前を見ていた
そこに誰かがいるかのように、訴えるように声を発する
まるで懺悔するみたいに、許しを請うように声を絞り出す

「ほんとうに、そうでしょうか?
 ほんとうに、ぼくは、あのひとのそばにいるならなんでもするとおもってるのか
 だったらどうしてこんなにつらいのですか
 だったらどうして、あのひとのことだけかんがえていきていられないのですか」

本当に?と
もう一人の自分に問われるのだと 蒼太は言った
そして、その問いに答えが出せないのだと言っていた
悲しい顔で、はらはらと泣きながら

「ぼくがだれかをきずつけるしごとをやめたら ぼくはあのひとのそばにいられなくなりますか?」
泣きながら言う声は悲痛だった
両手で顔を覆い、涙に濡れながら言葉は続く
止まらないのだろう
一度声に出すともう、止まらないのだろう
「ぼくがそしきをやめたらあのひとのそばにいられなくなります」
「ぼくはあのひとのそばにいたい」
「そのためならなんでもする」
「でもぼくはだれかをきずつけたりころしたりするのがいやです」
「ひとをかなしませるしごとをしてまでして」
「あのひとのそばにいたいのか」
「わからない」
「そばにいたいけど」
「わからないんです」

息をつく間もなく、吐き出すように言った蒼太は その後荒い呼吸を繰り返していた
目を開けたら、涙がこぼれていく
潜在意識は遠のき、催眠状態がとけていく
「本当に僕は、あの人の側にいたいんでしょうか・・・?」
いたいのだろう、その人の側に
「人を傷つけてまで」
だけど人を傷つけることが辛くて仕方がないんだろう
人に優しいからこそ、自分の痛みは耐えることができても、人の痛みには耐えられないのだろう
「あの人の側にいたいんです」
それは心からの願いなんだろう
「だけど、あの人の側にいるには組織で仕事をするしかない」
だから迷っている
自分の想いを疑ってまで、人を想って傷ついている
「どうしたらいいのかわかりません
 僕は我慢しようとしました
 誰かを傷つけることを我慢して、自分のことを考えて、あの人のそばにいようとしました」
そして、眠れなくなったのか
自分の心に嘘をつくから、身体に異常が現れる
それを知っているのだろうか
本能で感じ取っているのだろうか
あの人の側にいることより、人を傷つけないことの方が彼にとっては大切なのか

「人を傷つけないためにあの人の側から離れるというこたえを出した場合
 傷つくのは君だけで、他の人はけして傷つかないものね」

優しすぎてかわいそうだと、ロマは思って蒼太を抱いた
わずかに びく、と怯えたような風でしばらく身をかたくしていた蒼太は やがてロマに身体を預けた
泣いたから わずかに上がった蒼太の体温が伝わってくる
かわいそうな患者
こんなに優しい人間は、あんな組織には向いていない
こんな風になるまで、蒼太を放っていた「あの人」に 怒りを感じて吐き気がした
彼は人だから、こんな風に泣くのに
彼は人だから、それでも必死に仕事をしているのに
どうして救ってあげないのか
どうして癒してあげないのか
怒りで気がふれそうになる
組織のやり方に、我慢ができない

その晩、蒼太はここに来て初めて眠った
カウンセリングのあと、そのままロマの部屋のベッドに横になって
ロマがカルテを書いている間に、いつのまにか眠りにおちた
茶色の髪を撫でながら、その寝顔を見下ろして ロマはそっと溜息をつく
彼はまだ答えを出せていない
必死にやってきたことの結果に傷つき、自我に目覚め
他人のために 自分の想いを犠牲にすることまで考えている
だけどこたえはまだ出ない
「答えを焦ることはないよ、ゼロ
 君のことは私がちゃんと癒してあげるから」
つぶやいて、ロマは蒼太の頬にそっと口付けた
かわいそうな患者が、ロマの心に痕を残す

次の日、蒼太は昼になっても起きてこず、
ロマが学校から帰っても まだベッドで眠っていた
「ゼロ、もう昼だよ
 そろそろ起きて何か食べないか?」
カーテンを開けて部屋に光を入れると、蒼太はベッドの中で寝返りをうった
「ん・・・、」
ぼんやりとした顔
その様子に、少しだけ安心する
今まで眠れなかった分を取り戻すように眠ったのだろう
それは自分のカウンセリングで少しは蒼太が回復したことの証だ
今までずっと言えなかった言葉を口にしたことで、
少しは、心の負担が減ったのか
言ってもいいのだと言われたことで、何かが溶けていったのか
今もまだ、ベッドから起き上がれずにモゾモゾしている様子が可愛くて仕方がない
「ゼロ、もう昼だよ」
ベッドに腰掛けて 笑った
その言葉に 慌てたように蒼太は上体を起こして目を擦る
「え・・・、あの、僕」
まだ眠い視線が見上げてくる
東洋人独特の、年より幼く見える顔が 戸惑ったように揺れている
「学校は・・・」
「終ったよ
 君はよく眠っていたから、今日は私一人で行ったんだ」
子供達が寂しがっていた、と
その言葉に 蒼太はようやく今の状況を理解したのか、慌てたような顔をした
「すみません・・・っ、僕・・・っ」
わずかに頬を染め必死の目になる
それがとても可愛かった
こんな風な顔は、見たことがないかもしれない
ここにきてからはずっと、大人しくてお利口で、従順な患者だったから
「かまわないよ
 君が眠れるようになってよかった
 さぁ、昼食にしよう
 手伝ってくれるかな? 今日はパンを焼こうと思ってね」
「はい」
促すと、蒼太は立ち上がってついてきた
昼食のあと、またカウンセリングをして
蒼太の心に触れて、対話して、本音を聞きだして、癒す
それを繰り返して、あと何日
あの何日で、蒼太は答えを出すだろう

その夜、ロマの家に客が来た
蒼太は相変わらず地下にこもって熱心に本を読んでいたから、ロマはその間に 1人で客の相手をした
ワインを手土産に持ってきた男は昔からの友人で
彼も元々は組織の人間だった
今は、表の世界で会社を経営している
「仕事は相変わらずか?」
男はなまりの強いドイツ語で話しながら 辺りを見回した
組織にいた人間らしく、いつもどこか警戒している
常に気を張り詰めていて、それがこちらまで伝わってくる
精神科医なんてものをやっているから余計、ロマはそういう類の緊張感に敏感だった
「患者は?」
「下で本を読んでる
 5時間くらいは夢中で読んでるよ
 私が下に行っても気づかないくらい のめり込んでる」
ふーん、と
男は言って それからワインに手をつけた
「若いのか?
 優秀なのか? 引き抜けそうか?」
「年は21、2年でBランク」
ロマはわずかに眉を寄せて言った
蒼太は優秀だ
普通2年でBランクになどなれない
5年かかっても、一人前になれない者もいるというのに
「使いやすそうか? いい人材に金は惜しまない」
彼は友人だが、言葉に気を使わない人種だった
粗暴で遠慮がない
仕事はよくできるけれど、優しさや配慮に欠けるところは 彼のあまり好きにはなれない部分だった
「治療が終ったあと、組織をやめそうなのか?」
「まだわからないよ」
「かわいそうな奴なんだろ?
 せっかく治ったのに、また組織なんかに戻してもいいのか?
 組織は相変わらず 人をモノみたいに扱ってるんだろう?
 それで、その患者も壊れちまったんだろう?」
男の言葉に、ロマは苦笑した
彼の言うことは間違ってない
組織に潰された人間が多いのを、一番知ってるのは精神科医だった自分だ
年間何人の人間が治療に来るか
眠れないとか、闇が怖いとか、震えが止まらないとか、吐き気がおさまらないとか
頭痛、しびれ、その他の色々な症状が身体に出て
それでも仕事に出ていかなければならない
緊張に身を浸して、命をかけて、身を削って、
じわじわと病んでいく
そして、いつか、再起不能になって捨てられる
組織は、簡単に、使い物にならなくなった人間を捨てる
「お前のところに治療に来て、せっかく治った人間が その後どれだけ組織に殺された?
 おまえが、患者達が組織へ戻るのを止めていたら、あいつらは皆 死ななくてすんだのに」
男の言葉に、ロマは静かに溜息をついた
もうずっと、ずっと、ロマは組織を憎んでいる
思えば、きっかけはテレーゼだった
彼女はある日、仕事先できつい自白剤を打たれて廃人のようになった
治療は困難で、大量の投薬を必要とし、医師の中にはこのまま死なせてやった方がいいという者もいた
なのに組織はテレーゼのスキルを惜しみ、治療するよう命令し
結局 彼女は、治療の苦しみに何日も何日も耐えなければならなかった
あまりに悲惨で、
あまりに残酷で、
精神治療の担当だったロマは、何度も何度もボスにかけあった
もうやめて欲しい
もう死なせてあげてほしい
これ以上苦しめても、治らないかもしれない
だったら、今、楽にしてやりたい
「組織ってのは、人の痛みに無頓着だ
 駒が壊れても、自分は少しも痛くないもんな」
結局 どんなにロマが懇願しても 安楽死など、組織が聞き入れるはずもなく
2ヶ月間、テレーゼの治療は続けられ、その身体は衰弱しきっていった
治療開始から74日目に、彼女の意思の強さか、それとも奇跡か、
テレーゼは正気を取り戻したけれど それでもすぐには復帰できるような状態じゃなかった
最低半年の休養は必要だと、ロマが判断したにも関わらず
その3日後、テレーゼは仕事に復帰した
パートナーである鳥羽が仕事へ行くと言うから、私も行くのと
その時 彼女がやつれた顔で笑っていたのを忘れない
あの痛々しい笑顔は、脳裏にはりついて多分一生 消えはしない

なぜ、心を病んだ者に この上まだ仕事をさせるのか
死ぬより辛い治療をするのか
全ては組織の利益のためで、
誰も、それによって傷つく人間のことを考えていない
駒は、ものではなく
血が通い、痛みを感じ、悲しみを感じる一人の人間なのに

結局、ロマはその後すぐに組織の施設から出た
仕事は続けるが、この場所にはいたくないと、こんな田舎の山奥にやってきた
組織に病む人間がいなくなる日は来ない
組織をぬけても良かったけれど、そうすれば残された者達を治療する者がいなくなる
ロマ以外にも精神科医はいるけれど、ロマの腕はその中でも一番だった
他の者では癒せない傷も、自分なら癒せる
その自分がやめてしまったら、救われず死んでしまう人間がきっと増えてしまうから
「何のために組織に残ったんだよ」
「人を救うためだ」
「だったら、今の患者も救ってやれよ」
「・・・わかってる」
男の言葉に、ロマは苦笑した
わかってる
蒼太の傷は日に日に 確実に癒えてきている
傷が癒えたら 蒼太は組織に戻るだろう
傷つくために戻るようなものだ、壊れるために帰るようなものだ
今度は再起不能になるまで壊れるかもしれない
組織にいる以上
あの狂った世界にいる以上
心の安息は訪れない
(ゼロ・・・)
そんなのに、自分は耐えられるのだろうか
蒼太を、笑って送り出すことができるのか
あんなにも、けなげで、素直で、
ようやく心を開いて、
今まで癒えなかったことを、自分にだけは泣きながら訴えた彼なのに
「いつもみたいに、組織へ戻さなければいい
 オレの会社は、あんな腐った組織とは大違いだぞ」
男は笑った
口は悪いけれど、信頼できる男だ
組織のように、人を駒だと公言して酷い扱いはしていない
「いつもみたいにな」
笑った顔を見つめながら、ロマは蒼太のことを考えた
死なせたくないと、思った

次の日、ロマが目を覚ますと蒼太の姿が見えなかった
(外・・・かな?)
窓の外は雪が積もっていて、一面の銀世界
こんなに降るのは珍しいな、と思いつつ ロマはドアを開けた
玄関から庭に向かって 足跡がついている
「ゼロ?」
名を呼びながら 足跡を辿った
「ゼロ、何をしてるんだ?」
雪が珍しいのだろうか
それとも、何か嫌な夢でも見たのだろうか
昨日のカウンセリングでは、少し落ち着いて自分の想いを考えていた
どうしたらいいのか、
答えはまだ出ていなかったけれど、少しずつ冷静になってきている
優しい蒼太は、自分の想いを犠牲にして、
これ以上 人を傷つけない道を選ぶような、そんな気がする
蒼太の心がきしまないよう、嘆かないよう
誰も傷つけたくないという その優しさを殺してしまわないよう
あの人の側にいることを諦めて、組織を辞めるよう
ロマの助言も その方向を向いている
まるで洗脳のように、無防備に心を開いた蒼太に、精神科医が言う
だったらもう、組織なんかやめてしまえば君は楽になれるのに
誰も傷つけずに、すむのに、と
「ゼロ」
庭の木を見上げて、蒼太は立っていた
最初に見たような顔
何かに置いていかれたような 不安げな顔
振り向いた目が揺れた
今にも泣き出しそうだと、思い
そう思った途端、愛しくて抱きしめたくなった
彼をこのまま組織へ帰すのは嫌だ
また傷ついて、壊れるのを黙って見ていることなんて できはしない

「雪って、こんなに積もるんですね」
「昨夜はよく降ったからね
 普段はこんなには積もらないよ
 さ、そんな格好じゃ風邪をひくから、家に入ろう」
「はい」
ロマを見て、話をする蒼太はいつも通りだったけど、
蒼太の泣き出しそうな横顔は、いつまでもロマの心に痕を残した
放したくなくなる
失いたくないと強く思った

その日のカウンセリングも、催眠状態で行われた
治療のときは理性が邪魔をして 真実が見えなくなるため大抵 本人の潜在意識を引き出して対話をする
患者は夢を見ているような感覚で、いつも心の底に隠しているものや
自分でさえ気づいていないことを話す
医者はそこから、病の治療法を探り出す
「もう一人の自分と、最近会話をした?」
「いいえ」
蒼太はわずかに首を振った
それから、首をかしげて溜息をついた
「ずっと・・・考えていたんです
 僕が本当は・・・どう・・・したいのか・・・」
わずかに沈黙が下りる
黙って見守るロマの前で、蒼太はまた溜息をついた
「先生は組織をやめたら僕は穏やかでいられると言いました
 ・・・本当ですか?
 本当にぼくは、あの人を忘れられるでしょうか・・・」
頼りない声
患者は医者を信用している
心を開いて想いをうちあける
潜在意識をさらけ出して、どうしたらいいのか道を求めている
「私は、何が一番君のためになるのか いつも考えているよ
 君は優しい
 好きな人と一緒にいると幸せだろうね
 だけど、そのために君は誰かを傷つける
 そして それによって自分も傷つく
 悩んで眠れなくなって、人の痛みに窒息しそうになって、泣きながら私に言うんだ
 誰も傷つけたくないのに、って」
蒼太は、泣き出しそうに眉を寄せてうつむいた
上体がわずかに震えている
蒼太は、今や、ロマの言葉の一つ一つに、一喜一憂する
かなりの思考を影響されている
(君のためを想ってる・・・)
こういう治療には、パターンがある
まずは、患者と信頼関係を築くため、相手が気を許すような人間を演じること
そして、話を聞く
全部全部吐き出させて、患者のことを全部知ることからはじめる
この時、患者の心を読み取って 自分は味方だと思わせなければならない
患者が白といえば白、黒といえば黒
認めて、肯定して、支えて、近づく
そして、相手が心を許した時、ようやく相手に触れることができる
ようやくこちらの声が届く
その後は もう簡単
医者を信頼しきった患者ほど洗脳しやすいものはない
じわじわと、自分の求める結論へ持っていく
それが彼のためになるという結論へ導いていく
病んだ心を救う道を、示してやる
そうすれば、やがて人は病を克服し 自分の足でまた立てるようになるのだ

「君は、優しい
 だから傷つくんだね」
「僕はひどいことをたくさんしてきました」
「君は優しい
 ひどいことなど、本当はしたくないんだろう?」
「僕はたくさんの人を傷つけてきました」
「君は優しい
 人が傷つくよりは、自分が傷ついたほうがマシだろう?」
「僕は」
「君は優しい
 君が想いを忘れれば 君は救われる、それだけだよ」

治療とは、洗脳に似ているとずっと思っていた
医者は親身になって患者のほんとうに求めるものや、
その患者にとって一番いい方法を探すけれど
「大丈夫
 君は一人になったりしない、君には私がいる」
医者は 意識的に治療と結論の方向を決めることもできる
歪めることもできる
そして 患者の心をこの手の中に閉じ込めてしまうこともできる
医者がそう、意識すれば
心を開いた患者など、すぐに洗脳できてしまう
「先生・・・、僕はどうしたらいいですか?」
救いを求めるような目が ロマを見た
じわじわと、ロマの心にシミを広げる視線だ
出会ったときからずっと、
蒼太の言葉に、態度に
ロマの中の支配欲が、かきたてられ、満たされていく

「組織には戻らなくてもいい
 君には私が、もっと幸せな世界を用意してあげるから」

蒼太は目を揺らしただけで、返事をしなかった
頼りないその様子に、たまらなくなる
そっと抱きしめたら、抵抗はなかった
目を閉じた、その頬を涙がすべる
ドクン、と
身体の血が逆流するようだった
抱きしめた手を滑らせて、頬に触れ、首に振れ、背に触れ、腰に触れた
一度だけ、蒼太がロマを呼んだのが、耳から離れなかった

2度、口づけをすると蒼太は催眠状態からかえってきた
戸惑ったようにロマを見て
だが、拒否の言葉は発せず まるでロマに身を委ねるように目を閉じた
精神科医は、いつも冷静で
人の心をどうこうするのだから、自分は誰よりも落ち着いていなければならず
弱味を見せたり、慌てたり、熱くなったりしてはいけないのだけれど
「ゼロ、私は君を抱きたい」
囁いた声は、自分が思うより熱を持っていたし、
蒼太の返事を聞く前に、もうその身体をベッドへと押し付けていた
揺れる目が見つめ返してくる
抵抗はない
拒否の言葉もない
治療を通して心に触れたロマを、100%信頼している、そんな様子だけが伺えた
「ゼロ」
シャツをたくしあげて胸の突起を舌で舐め上げた
わずかだけ、蒼太の声が上がる
潤んだ目で見つめられて、ロマの中で何かが揺れた
自制がきかない、と
まるで他人事のように、思った

ひく、と
蒼太の喉から嗚咽が漏れ、背が反るのを ロマは指でなぞった
「ひぅ・・・、ぅく」
シーツに身体をしずめて、異物の圧迫に喘ぎながら
それでも声を上げるのが恥ずかしいのか 必死に我慢している様子にロマのものはズクズクと疼いた
深く突き刺すように犯して、中をかき回すと熱いものがからみついてくる
水音がいやらしい響くのは、蒼太の身体がこういう行為に慣れているからだろう
組織では、性行為を武器と考えている者が多い
実際、交渉や相手の油断を誘うのに、性行為は銃よりも大きな威力を持つ
会得しているのと、していないのとでは仕事に大きな差が出てくる
蒼太も、仕込まれているのだろう
本人の意思に関係なく、身体は行為に慣れていく
求めるように しとしとと濡れる
「ゼロ、君の全てを私に預けていい
 君は何も心配しなくていい」
深く中へと身を沈めると、手に握った蒼太のものが ひくひくと震えて雫をたらした
「せ、先生・・・っ」
シーツを握る蒼太の手が震えている
喘ぎ声が 我慢しきれずに吐息の間からこぼれ出す
「ゼロ、私はいつも君の味方だ
 君が傷つかないよう、私が君を守っていくよ」
蒼太のものを擦り上げて、開放を誘うと 蒼太は喘ぐような声を上げて達し
その後のしめつけに、ロマも蒼太の中に白濁を吐いた
泣くような蒼太の声が、荒い息に混じって聞える
身体を繋げたまま、抱きしめた
いつもいつも思う
自分の手で救い上げた患者は、手放したくない
組織なんかに、渡したくない

次の日の朝、
やはり蒼太の姿は部屋になかった
(また庭かな・・・)
今朝は、まだ雪が降っていた
しんしんと雪の降る朝は、物音が何もしない
白い雪に吸い込まれるような錯覚に捕らわれながら ロマは昨日蒼太がいた庭木のところまで歩いた
「ゼロ」
顔を上げて、声をかける
昨夜は遅くまで、二人身体を合わせていた
だから今日は 昼くらいまで寝ていると思っていたのに
「ゼ・・・」
その中、昨日と同じ場所に蒼太は立っていた
「・・・ゼロ・・・」
昨日と同じ
ただ、蒼太の側には もう一人
黒いスーツの男がいて、ロマと蒼太の間には シンシンと冷たい雪が降っている

「お久しぶりですね、Dr.ロマ」
男が、最初に口を開いた
知っている顔だ
言葉を交わしたのは 2.3度しかないけれど、ロマにとっては忘れられない男
テレーゼが想いつづけ、追いかけ続けた男
蒼太や、そのほか 彼のパートナーになった者達を狂わせていった その本人
「聡明なあなたのことですから、オレがここにいる意味はおわかりでしょう」
相変わらず、嫌味な言葉遣いをする男だと思った
彼が、蒼太のパートナー
あれほどに泣きながら想いを吐いた「あの人」そのもの
「・・・プロを騙すなんて、すごいね、ゼロ」
苦笑が漏れた
鳥羽の言葉の通り、わかってしまった
ここに、二人いるのを見て
鳥羽の隣に立つ蒼太の、冷めたような目を見て
「この仕事が終れば こいつはAランク認定だ
 これくらいは、できてもらわないとなぁ」
鳥羽の言葉に、苦笑しか出てこなかった
こんな男のどこがいいのか
こんな男に、どうしてたくさんの人間が狂っていくのか
「君のあれが演技だったなんて、見抜けなかったよ」
ロマはつぶやいて、蒼太を見つめた
ようするに 蒼太がここに来たのはカウンセリングのためではなく、仕事だったということだ
泣いたのも、震えたのも、搾り出すように告白したのも、許しを請うようにすがったのも
みんな演技で、みんな嘘で
蒼太は、ここにスパイにきたということだ
ロマのことを、調べていたということだ
地下には大量の秘密の書類が隠してあった
ロマが治療した組織の人間に対して、組織をやめるよう仕向け別の会社へ紹介していたこと
友人と取り交わした契約
患者達のカルテ
カウンセリングの記録はドイツ語で、友人とのやりとりはラテン語で書いていたから 蒼太には読めないと思っていた
最初にそう、言っていたから
だから、まるで油断していた
蒼太が何時間も地下にこもりっぱなしでも 何も疑いはしなかった
書類は隠してあったけど、あの程度のフェイクなら、組織の人間が本気で探せば1日で文書を見つけるだろう
蒼太はずっと、地下でロマの裏切りの証拠を探していたのだ
「Bランクを侮っていたよ
 一体 何か国語 読み書きできるの?」
苦笑しかできなかった
蒼太はそれには答えず、視線を足下の積もった雪に落としている
「あなたは結構微妙な位置にいた
 組織は従順な駒が欲しい、なのにあなたは逆らい続けた」
鳥羽が、煙草に火をつけた
甘いような香りが漂ってくる
「私は人なんだよ
 組織の駒になった覚えはない」
また苦笑が漏れた
精神科医として ずばぬけたスキルを持っていたロマは 若い頃、この腕を最大限に発揮できる場所を探していた
一人でも多くの人間を救いたいと思って、病んだ人間がたくさんいるところを探していた
そして、たどり着いた
この狂った世界に
人を人とも思わない、黒のパスポート
かわいそうな患者のたくさんいる、この組織に
「Dr.ロマ
 あなたが最高の腕を持つ間は、組織もあなたを泳がせていたでしょうけどね
 生憎、今はあなたより腕のいい精神科医が組織にはいる
 無理をして、あなたを置いておく必要がなくなったんですよ」
鳥羽は、煙を吐き出した
雪が音を吸うから、鳥羽の声だけがここに響いている
やけに、はっきりと耳に届く
「それでも大人しくしてれば、こんなことにはならなかったのに
 ここ2.3年のあなたの行動はちょっと度が過ぎた
 自分の患者をよその組織に流す
 そんなことをされたら、組織には大打撃ですからね
 優秀な人材の治療を頼んだのに、誰一人戻ってこず みんな組織をやめてしまったら
 組織自体が成り立たない」
いくら温厚なボスも怒りますよ、と
鳥羽は笑った
冷たい、冷たい笑いだと思った

組織が憎くて、組織に壊されていく人間がかわいそうで
自分が救った患者がまた、組織に狂わされ、やがて死んでいくのが我慢できなかった
だから、患者の心をコントロールした
治療中、自分に全てをさらけ出した無防備な人間を洗脳した
組織にいてはいけない
また壊れるだけだ
本当の君はそれを望んでいない
私が、新しい世界へ連れていってあげよう
傷つくことのない世界で、生きていきなさい

「教えて欲しいね
 あれが演技だなんて、今でも私にはとても思えない」
ずっと黙っている蒼太に、ロマは言った
ようやく蒼太が、視線を合わせる
ロマの目を見て、それから無表情に答えた
「あなたに言ったのは本当のことです
 僕はここにくる前、組織の別の精神科医にカウンセリングを受けました
 そして、病んでいたのの治療をしました
 ・・・僕が演じたのは、その時の僕の姿
 ビデオに録画された治療中の自分の映像を、何度も何度も見ました
 それをそのまま、演じただけです」
自分の前で とても人間らしかった蒼太の姿は 今はどこにも見えず
ここに立っているのは 冷めた目をした男だった
テレーゼからの手紙の通り、蒼太は病んでいて
麻薬中毒から復帰したばかりの状態でカウンセリングを受け 心の傷を癒され
だが、その途端に、
治療の様子を見せられて それを演じろと
言われて来たというのか
心を病んでいた人間に、その様子を見せるなんて信じられないと思った
考えられない
そのせいで、今度は完全に精神が崩壊してもおかしくないのに
傷を抉るようなことを、組織は平気でしているのだ
たった今も
「ひどいね・・・」
組織が憎い
人を人とも思わない組織が憎い
蒼太の側に立っている鳥羽が憎い
世界の何もかもを恨んでしまいそうになる
「君がかわいそうだ
 私はたしかに組織を裏切っていたけれど
 組織が狂ってるのも、事実だろう?」
ロマの言葉に、相変わらずの無表情で蒼太は答えた
「仕事ですから、何でもします」
今の蒼太からは、温度が感じられない
昨日まで、今朝まで
自分に心を開いていた男と同じ人間とは思えない
あんなに頼りなく、傷ついた目をして、捨てられたみたいな顔をしていたのに
「私は君を甘くみていたんだね
 ・・・黒のパスポートを、みくびっていたよ」
溜息をついた
自分では 間違ったことをしていたとは思わない
だが、心のどこかで こんな日がいつか来るだろうとは思っていた
組織が、こんな裏切りを許すはずがない
だが、自分のスキルが必要だというのも知っていたから
この腕があるかぎり
自分が精神科医として上位にあり続ける限り その時はまだ先だと思っていたのだけれど
「聞きたい、
 君を癒したのは誰なのか
 君の治療の様子を撮影して、それを本人に見せてこの通りに演じろなんて酷いことを言ったのは誰な
のか」
医者の風上にも置けない
血も涙もない鬼だと思った
医者は、患者のこと以外は考えてはいけない
邪念を持って治療してはいけない
他人の心に触れるのだから
後に仕事で使うために、治療をするなんてことあってはいけない
「テレーゼさんです」
静かに、蒼太が答えた
ドクン、と心臓が鳴る
ドクンドクン、と一瞬何も考えられなくなった
「テレーゼは優秀な女だ
 ひとりで外科、内科、精神科の何でもこなす
 精神トレーニングも担当してりゃ、その手の研究の指揮も取ってる
 カウンセリングだって やろうと思えばできる
 あなたと同等程度には」
鳥羽の言葉も あまりよく聞えない
雪が冷たい、それだけが妙に心を震わせた
雪が冷たい
皆、どこまでも狂っている
「私は純粋に悲しいよ
 どうして辛い世界に戻っていくのか理解ができない
 君の心に触れて、君の傷に触れて、
 それを癒そうとした者の気持ちを、君は考えたことがない?」
ロマの言葉に、蒼太はわずかだけ、
ほんのわずかだけ苦笑した
それが彼の素顔なのかはわからない
ただ、出会った頃のように 従順でききわけが良く、人に何か特別なものを抱かせる目ではなくなっていた
わずかの間の後、答えが帰ってくる
「考えません、仕事ですから」

鳥羽と蒼太は去ってゆき、後にはロマだけが残された
蒼太を初めて見た時のあの横顔
捨てられた犬みたいな目、不安気な横顔
何かをずっと見て ただ立っていた
声をかけなければ一晩中でもそこにいそうなほどだった
一体何を見ているのだろうと思っていた
今、答えがわかった気がする
何かを見ていたのではなく、何かを諦めようとしていたのだろうと
ああやって、前も後ろも、上も下もわからなくなるくらい突っ立って
世界に溶けるみたいになることで、少しだけ楽になれるのかもしれない
昨日の朝も、雪の中に1人立っていた
ああやって、雪になってしまいたかったのかもしれない
(ゼロ・・・)
悲しいことだと思った
彼の演じた人格は、少し前までの自分だった
あの人の側にいたいと言い、
人を傷つけたくないと言い、
どうしていいのかわからないと言い、
こたえを探して泣いた男
あれは、君だ、確実に
だったら、もう、君は答えをみつけたのか
仕事だから、と
ロマを傷つけることになるとわかっていて ここに来たあの男は、自分の答えを見つけたのだろうか
「その答えがどんなものであれ」
ロマは まだ降る雪の空を見上げて溜め息をついた
「ゼロという名の君が、この先泣くことのないよう」
音もなく、白い雪が降り続け、去った二人の足跡を消した
ここにはもう、誰もいない


女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理