ZERO-34 15日間 (蒼太の過去話)


蒼太の身体は、治療を開始してすぐに、両手両足を縛られた
手首と足首に服の上からタオルのようなものがまかれ、その上をきつく縛られる
革のベルトがきつく食い込むのが、その分厚いタオルを隔ててでも感じられた
その先には鎖がついていて、それは天井へと繋がっている
まるで、拷問部屋のような装置だと思う
理性を失って、人が抑えられないほどの力で暴れるからと、医者は淡々と説明した
「長期戦になるからな、
 縛ってないと暴れて手がつけられないが、そのまま縛るとすぐに骨が見えるまで肉が抉れる」
蒼太の腕を縛りながら鳥羽が言うのを、震えながら聞く
薬が切れて禁断症状が出るまであと6時間ほど
その真っ白い部屋で、縛られたまま床に座らされて色々な薬を注射された
ここがベッドじゃないのは、そんなものに寝かせても暴れて落ちてしまうからか
何もない部屋で治療するのは、そのほうが押さえつけるのに都合がいいからか
「こういうのは、人の治療というよりは動物の調教に似てる
 こっちも体力勝負だからな
 ベッドなんかあったら邪魔だろう」
色んな説明を受けて、薬を打たれて、
そうこうしている間に あっという間に2時間ほど過ぎ、その頃アゲハも合流して
この部屋には、縛られて震えてる人間が2人、医者が10人、異様な空気を漂わせていた
「僕はいやだっ
 治療するくらいなら死んだほうがいいっ」
アゲハのわめく声が聞えてくる
「死なせてっ、死なせてっ」
本気で怯えている悲鳴、
顔は蒼白で、ガタガタと震えていて、声はキンキン響いていた
医者の都合上、ここで二人同時に治療することになっている
「組織があなたを惜しみました
 治療して治るものなら、治して復帰させたいと」
医者の説明は、アゲハの耳には届いていない
恐怖に可愛い顔を歪ませて、鎖でつながれた手足をばたつかせている
「アゲハは症状が出てる
 処置を急げ」
医者の半分がアゲハにつきっきりで処置をはじめ、
その様子を 蒼太はぐるぐると渦巻く不安と恐怖を必死に押さえながら見つめていた
はじめてのことじゃないから、わかる
この麻薬の禁断症状
欲しがるものを与えてもらえない苦しさ
自分がなくなっていく感覚に襲われて、どこに立っているのかわからなくなる
暗闇に沈み、自分がどこにいるのかわからなくて、
さらには自分が何なのかさえも、わからなくなる
「思い出すか?」
鳥羽が顔を覗き込んできた
震えながら視線を合わせると、苦笑したような顔が見つめてくる
「オレがお前を見つけたときは お前は人形みたいだった
 お前の身体は薬に弱い
 堕ちるのもはやい、
 そして戻ってくるのに人の倍、苦しい思いをする」
ドクン、ドクンと
心臓の音が大きく響いた
冷たい汗が背中を伝っていく
何も言えなかった
縛られていなかったら、多分逃げ出してしまっていただろう
「怖いか?」
「怖いです・・・」
搾り出した声は泣きそうで、言葉にしたらもっと恐怖に捕らわれた
「何が怖い?」
「わからなく・・・なるの・・が・・・」
「何がわからなくなるんだ?」
「じ・・自分が・・・」
無意識に、全身に力が入っていて
ガチャガチャと 耳の横で鎖が大きな音を立てていた
「自分が何か、言ってみろよ」
「・・・・何か・・・?」
「今はまだわかるんだろう?
 わかるうちに、言ってみろ」
「え・・・う、」
ひく、と喉が震えた
思考がしにくい
身体が震えるから視界も揺れてる
鎖は嫌な音を出し続けていて、鳥羽の声を聞くのの邪魔をする
「おまえは何だ?」
「ゼ、ロです・・・」
「お前のパートナーは?」
「鳥羽さ・・・です・・・」
「ここはどこだ?」
「・・・そし、き」
「どうしてここに来た?」
「ひろわ、れて」
「誰に?」
「鳥羽さん・・・・に」
「ここで何をしてる?」
「し、」
仕事、と
言おうとして、喉が詰まった
ヒュ、と風のような音がする
呼吸ができなくて、蒼太は喘いだ
ガチャガチャ、とうるさい鎖の音がだんだんと遠ざかる
「呼吸困難の症状、出てるぞ」
「第一段階に入りそうですね
 思ったより早いな」
「これは薬に弱いって言っただろ」
「祐二、邪魔
 ちょっと離れてて」
「はいはい」

声が、遠くに聞える
聞きながら、必死に考えていた
ゼロという名の男
人の隠しているものが好きで、醜いものが好きで、汚いものに興味を持ち、
パソコンを使ってハッキングまがいのことをして遊んでいた男
世界を知ることが楽しくて仕方がなかったあの頃
情報を抜く仕事をするようになり、その仕事の難易度が高ければ高いほど 夢中になっていった
達成感とか、スリルとか
そんなのに酔っていた
自分の力でどこまでいけるのか、試したくて仕方がなかった
貪欲に、世界の暗い部分を潜っていった
そして、堕ちた
闇の世界を甘くみていたのかもしれない
気づいたら、麻薬漬け
知らない間に 何もかもわからなくなって まるで死んだみたいになっていた
鳥羽が救ってくれなかったら、今の自分はここにいない

「ゼロ」
名を呼ばれている
「ゼロ」
暗い世界を歩く名前
「ゼロ」
自分でつけた名だ、ゼロというのはプラスでもマイナスでもなく、
0と1で形成されるコンピューターの世界でゼロは、STOPとかNOとか、そういうものを表している
「ゼロ」
プログラムが好きだったから、0も1も身近だった
こういう世界に生きるのに、ポジティブな名前は似合わない気がした
だから迷いなく、ゼロとつけた
自分自身に
裏の世界を深く深く潜っていく自分に、そう名づけた

その名を呼ばれる
誰より何より依存して、まるで神みたいに思っているあの人に

「ゼロ」
何度目だろう
もう何十回と呼ばれて、蒼太はようやく目を開けた
はじめ、ここがどこだかわからなくて、
身体がきしんだ痛みと、白い景色に 記憶はじわじわと蘇った
「あんまり寝てると戻ってこれないぞ
 できるだけ、意識をしっかり持て
 つらくても、目を開けてろ」
蒼太の身体は 今や震えが止まらなくなっていて、
どうしようもない不安が、全身を埋め尽くす勢いで広がっていた
「あ、く・・・っ、く・・・」
医者が怖い
この部屋の空気が怖い
聞える音が怖い
身体中がズキズキと痛む、その痛みが怖い
「ゼロ、そろそろワケがわからなくなるだろうから今のうちにいっておくけどな
 オレがお前につきあうのは、15日間だけだ
 その後は仕事が入ってる
 15日で戻らなければ パートナー解除だ
 その後お前が復帰しようが死のうがオレは関与しない
 だからな、15日の間に戻ってこい
 オレはお前をパートナーとして気に入ってる
 だから、ここについててやる」
どくん、と
心臓がなって、身体がカッと熱くなった
苦しい、たった今も
身体がおかしくなっているのがよくわかる
呼吸はできないし、肢体が千切れそうに痛い
頭痛だってするから、まともにものが考えられない
だけど、鳥羽の言葉だけはわかる
そして、彼の言葉は蒼太を支配し、生かし殺す
今までもずっと、そうだった
「全部吐き出してもかまわない
 喚いても、泣き叫んでもいい
 どんなに無様でもいいから、戻ってこい」
こんな痛みはまだ、序の口で
これから先、どれほどの苦しみが待っているのかと、想像するだけで張り裂けそうだった
痛み、苦しみ、恐怖、それから心がきしむような感覚
鳥羽に拾われて、この組織に入って、色々なものを覚えた
この身で経験してきた
どんな時だって、耐えて耐えて耐えて、今がある
泣きながら、叫びながら、震えながら、許しを請いながら
足掻いて、すがって、しがみついてきた
そのどの経験よりも、恐ろしいことが この身を食らい尽くそうと迫っている
「できるかぎり目を開けてろ
 ずっとここにいてやるから」
鳥羽の手が、蒼太の髪を撫でた
また体温が上がった気がした
だんだんと、意味がわからなくなってきている
誰、とか
何、とか
ただ見ているだけ
感じているだけ
なのに、鳥羽が医者に促され 立ちあがって場所を移動したのを無意識に視線で追いかけた
こんなになっても
こんなになっても、求めてるのは鳥羽だけ

最初の3日間、肉体的な地獄の苦しみが続いた
熱が上がり、呼吸ができなくなり、頭痛と吐き気に犯されて
手足を縛っている革のベルトが6回切れた
苦しいからもがく
悲鳴を上げて逃れようとする
いつしかわけがわからなくなって、何でもするから許してください、と
懇願を繰り返した
許してください、許してください
今までのどんな拷問の訓練だって、こんなに苦しくはなかった
ボロボロになって、ズタズタになって、血だらけになって、
耐えて耐えて耐えて、
それでも限界がきたら許してもらえた
許してください、と
何十回、何百回、
わけもわからず うわごとのように繰り返したら
いつかは鳥羽の手が、その苦しみから救い出してくれた
だけど、今はそうはいかない
どれだけ泣いても、どれだけ痛んでも、どれだけ懇願しても聞き入れられない
苦しみは続いて、痛みはますます激しくなる
「あ、あ、ぐ・・・・・」
朝も昼もなく、気が狂いそうになりながら まだ正気なのは薬のせいだろう
一日に何度も打たれる薬が、こんなになってまでなおまだ、蒼太に正気をもたらしている
「い、ぐ・・・」
ガクガク、と
震えながら 蒼太は必死に鳥羽を見上げた
もう何千回、言っただろう
あと何千回言えば、許してもらえるのだろう
「ゆるして・・・く、・・・さい」
ぼたぼたと、涙が頬を滑っていった
何もわからないくせに
苦痛しか感じないくせに
この人が支配者だと本能でわかる
他にも人がいっぱいいるのに、この人しか目にはいらない
この人のことだけ、見ている
「ゆるし・・・」
ズキィ、と
頭が割れそうな痛みが貫いて、蒼太は全身を硬直させた
「あぁぁぁああっ」
がちゃがちゃと鎖が鳴る
もがいても、もがいても逃げられない
叫んでも喚いても、この苦しみは終らない
「嫌、嫌、いや・・・・・も、ゆるして・・・」
許して、と
また叫んだ
それでも、救いの手は差し伸べられない

4日目の深夜、散々苦しんだ後 蒼太は気を失ったまま覚醒しなかった
「ようやく第二段階に入りましたね」
「こんなに苦しんだのは初めてみましたよ
 たいてい、第一段階は2日でぬける
 ぬけられない場合は、3日目に死ぬ
 ここまで普通は保たない」
「こいつは、言われたことは必死でやるタイプだからな
 オレが戻れといったら、戻るだろうよ」
薬に弱い身体
治るのに、人の倍かかるだろう
人の倍苦しむだろう
なのに、耐えた
喘ぎながら、泣きながら、必死に耐えた
言われたとおり、必死に目を開けて
鳥羽を見つめながら、地獄の苦しみに耐え続けていた
「いっそ、諦めて死ねる子の方が幸せよね」
「こいつは死にたがりのくせに、自分では死ねないかわいそうな奴だよ」
「あなたは殺してはくれないしね」
「オレはあがいて生きてる人間が好きなんだ
 殺して楽になんて、してやらんよ」
鳥羽の言葉にテレーゼが苦笑して、ぐったりした蒼太の腕から鎖をはずした
「この先はもう暴れないから病室に移すわ
 処置の都合上、アゲハと同室だけど かまわないかしら」
「本人に意識がないんだから、いいんじゃないのか
 どこでやっても禁煙なのは変わらないんだろ?」
「あたりまえでしょ」
やれやれ、と
鳥羽は運ばれていく蒼太を見送った
医者がぞろぞろと撤収する
皆して新しい病室へ移動するのの一番最後を歩きながら 鳥羽はわずかに苦笑した
リミットまであと11日

蒼太は、深い深い闇の中にいた
黒いものがまとわりついてくる
それに喘いでいるうちに、やがて呼吸もできなくなった
泥水のようだと思った
それともタール?
拷問の訓練で水に沈められたときの記憶と感覚が合わさって、その黒いものが口から体内に入り込み身体を膨張させて弾く
そんな夢を繰り返しみた
「あ、あ、あ、あ、あ・・・・・」
ゼーゼーと、喉が鳴る
冷たい汗で、全身がびしょ濡れで
もはやその感覚すらないけれど
何もわからなくなりながら、ただただ恐怖していた
もう、どれくらい時間がたったのかもわからない
頭の中でフラッシュバックが起こる
外国の景色、人々の顔、銃とか、土埃とか、血とか、死体とか
それは麻薬の見せる幻覚なんかではなく、今までの仕事で実際に見てきたものばかりで
全て本物で、全て自分が関わってきたもので
言葉を交わした人や、手を触れた人達
自分が死体に変えた人たち
様々に意識が飛んで、再び彼らと向かい合って
二度三度、殺したり、騙したり、陥れたり、したと思ったらまた
呼吸のできない水底へ沈む感覚に、震えながら堕ちていった

意識のある地獄を耐え抜いて、意識を落としてからはただ悪夢のような幻覚のような
そんなものに ひたすら蝕まれていくだけだった
常に身体には黒いものがからみついていて、呼吸を奪うようで身体は重く
目の前には、見知った人間が笑っていた
彼とはいつ出会ったっけ
まだ教育期間中だっただろうか、
彼は蒼太が手渡した情報を元に作戦をたてていた
あの頃は、鳥羽の手伝いしかできなくて
情報自体を取ってくる鳥羽の仕事を見ながら その血に濡れた情報を纏めていただけだった
新しい兵器のこととか、国と国の争いのこととか
死者の数とか、実験のデータとか
目にするもの全てが新鮮で、今までに知らなかった世界のことに あの頃は胸がソワソワとするような高揚感と緊張感に満ちていた
新しい世界を知ること
未知のものに触れること
知識を得ること
この手で何かをなすこと
それがとても楽しかった
一つの仕事を終えたとき、まるで自分がその経験で大きくなれたような気がして、誇らしかった
鳥羽の教育も、仕事先での発見も
蒼太をどんどん刺激し変えていった
この世界のプロというものに、早くなりたいと思った
隣にいる、憧れの人のように
彼に必要とされるような人間に、早くなりたいと思った

まだ病んでなかった、あの頃

銃弾と銃弾が飛び交う中に立ち、蒼太はさっきまで自分がいた基地を見ていた
腕に、弾が2.3当たったのを感じる
衝撃と痛みが、身体を揺らす
それでも蒼太は基地を見ていた
あそこに、一人の男がいる
情報を纏めて、寝る暇もなくて
異国の言葉に慣れないながらも、カタコトで会話をして なんとかなんとかやっている男
彼の教育係は、毎日銃弾の中出ていって 貴重な情報を持って帰ってきていた
その後姿を見ながら、いつか自分もあんな風な仕事ができるのだろうかと
胸がぎゅっとなるような、期待のような緊張のような
そんな感情を抱いている 無知な男がいる
それを見ていた
身体に、いくつもの弾が食い込んで、貫通して、
痛くて、鈍くて、鋭くて、呼吸もできないような、こんな中で
そのバカな男がいる基地から 目が離せなかった
やがて身体は立っていられなくなるくらい穴だらけになって
血のかわりに、黒いタールみたいなものが噴出して
バケツの水をひっくり返したみたいに土の上に飛び散って流れて消滅する
そんな感覚を味わった

今、自分は身も心も病んでいる

気づけば、足の下には死体の山
どれも知ってる顔で
どれも血に汚れていた
「何がしたかったの?」
女が問いかけてきた
足の下の顔が、薄くわらってるようにみえる
美しい女の顔は、血で半分真っ黒になっていた
「世界を、知りたかった」
答えた声は、自分のものじゃないみたいだ
「何のために?」
後ろで転がっている男が言った
これも知ってる顔
研究員だった、いつも白衣を着ていた人
「知りたいという欲求を、満たすために」
声は、しわがれていた
自分はこんな潰されたかえるみたいな声だったっけ?
「人を不幸にしてまで、することか?」
今度は子供の声だった
死体と死体の間から、頭だけ出てる幼い子供の死体
この手で貶めた王子様、大きな目が見かげてくるのがとても可愛い少年だった
「失敗も敗北も許されない世界に、いたから」
足の下の死体の山
その上に立っているから、蒼太の身体はぐらぐらしていた
「やめればよかったのにね、組織なんか」
女が赤い唇で笑った
彼女は何だったっけ、秘書だったか
それとも、姫だったか
「深くて暗い世界を見せてくれる場所は、あそこしかなかった」
醜いものが好きだった自分
だって自分が醜かったから、醜いものは安心できた
汚い人間に興味があった自分
だって人って、そういうものだと思っているから
表でニコニコ笑ってるより、裏の世界にダイブして 人が隠してるものを見てるほうが楽しかった
学校へ行って、就職して、オフィスで仕事をするよりも、
裏の世界でスリルと達成感を味わってる方が良かった
どんなに痛くても、
どんなに辛くても、
どんなに苦しくても、

あの頃、その痛みや苦しみは、自分の身にかかるものだけだった
だから平気だった
だから心のままに、新しい世界を追えた
自分が辛いだけなら、どんなことでも我慢できる
自分しか傷つかないなら、この世界で生きていけた

急に空が暗くなって、何体もの折れ曲がった死体が振ってきた
色んなところに切り傷がある
そういえば昔、死体を解体したことがあったっけ
たくさん、たくさん、たくさん
心まで凍ってしまったみたいに、あの時何も感じなかった
仕事は冷徹に、感情移入などしないで、全てをモノだと思って接すること
気にしたってどうせ、やることは同じなんだから
だったら割り切ってやれと、教育係りのあの人は いつもいつも言っていた
仕事のときと、そうでないときをうまく切り替えろと言って
いくつもの、切り替えるためのものをくれた
指輪だったり、香水だったり、ピアスだったり、その他もいろいろ
「僕はバカだから、なかなか気づけなかった」
そして、だからこそ ここまで堕ちてしまったのか
いつまでも、いつまでも切り替えがうまくできないで
表面上は切り替えていても、心の底ではいつも仕事相手のことを考えていて
傷つけた人のことを考えていて、相手の痛みを感じていて
だから 中から壊れていった
底の方から崩れていった
平気なフリをして、笑っていたけれど 本当は身体中で悲鳴を上げていた
助けてください、こたえをください
僕はどうしたらいいんですか

僕はこの世界で生きて生きたいのに

また景色が変わった
教育期間中、世界のあらゆる街へ行った
色んな人を見た
鳥羽は鮮やかに仕事をこなし、サポートしかできなかった蒼太は そのレポートを読んでただ溜息をつくばかりだった
鳥羽は頭がいい
鳥羽は仕事ができる
鳥羽は自分が何をすべきか知ってる
鳥羽は自分が何をしたいか知ってる
「おまえはそんなことをしていいと思ってるのか」
誰だったか、もう忘れた
王室の門番だったか、馬番だったか、庭師だったか
彼はバラの咲き誇る美しい庭で蒼太を罵った
年は同じくらい
鳥羽の仕事が片付いて、その城を去るという1時間前
資料の隠蔽を言いつけられ実行した蒼太と、それを目撃した彼
青くなったり赤くなったりしながらつかみかかってきた彼の目を自分はまっすぐに見ていた
自分の欲求に素直だったあの頃
知りたいから、ここにいる
欲しいから、ここにいる
鳥羽のようになりたいから、鳥羽に必要とされたいからここにいる
全て自分のため
その行為が、誰かを傷つけているなんてこと、わかっていて目をそらしていた
逸らすことができていた、まだあの頃は

「これが僕の仕事ですから」
「やりたくてやってるんじゃないんだろ?
 また遅くない、やり直せる」
「あの人に命令されたからやっているんです
 いつかは自分で考えて動いて、あの人の役に立てたらと思っています」
「おまえはそんな人間じゃないはずだ
 そんなことをする人間じゃないはずだ」
「僕は醜い人間ですよ、
 楽しいんです、新しい世界を知ることが」

男は顔を歪ませて、蒼太に襲い掛かり
だが、彼の持ったナイフは蒼太まで届かなかった
あの後、鳥羽が彼を気絶させた
いつまでやってる、と叱られて
ぐずぐずしてると置いていくぞ、と言われて泣きそうになった
心の痛みは、鳥羽がこちらに背を向けたからで
男の言葉は鳥羽が現れた途端 掻き消えた

だからどうしてこんな風に思い出すのだろうと思うと、不思議だった
自分に降り注いだ言葉は、呪いのように染み付いて
どんなに時がたっても、消えないのかもしれない

ゼーゼー、と
ふと自分の呼吸の音が聞えたような気がして目を開けたら、そこは知らない部屋だった
身体の痛みだけがズキズキと響いていて、周りの声は聞えない
覚醒しているのに、まるでこちらの方が夢のようで
音もなく、何かを考えることもできず
ゼーゼーと喉がなるような感覚がわずかにあるだけで、後はただ視覚だけ
目にぼんやりと映るものを見ながら 何かを思い出しそうになった
「覚醒してます」
「やっとか、このまま死ぬかと思ったぞ」
「この子は薬に弱いのよ
 とにかく、覚醒時間は少しでも長いほうがいいわ
 祐二、声をかけてあげて」
視界に、何人かの人間が映っている
だけど、蒼太が見ているのはただ一人で
何も考えられないのに
目がその人だけを追いかけていて
今は痛みも切なさもなく、あの頃のように純粋に見ることができる
その姿を
「ゼロ、気分はどうだ?」
頬に彼の手が触れた
感じないけど、ただ必死に目を開けていた
思い出しそうなことがあるのに、思い出せない
またズルズルと、鮮やかな悪夢に引き戻されそうで
それに抗う力もなく、脳髄を引きずり出されるような感覚を覚えながら
それでも蒼太は必死に、鳥羽を見た
「今、7日目だだ
 第二段階も、とりあえずは突破だな」
何か言っているのはわかるけど、言葉は理解できなかった
それを悲しいとも思わず、何も感じることなく
ただギリギリまで、自分を悪夢に引き戻すものと戦って足掻いた
「お、堕ちたぞ」
「1回目の覚醒時間、2分・・・上出来だわ」
声はもう聞えない
悪夢へ引き戻されながら、どちらが現実かも もうわからない

過去の仕事の夢を繰り返し、繰り返しみた
痛みは再現され、人はあの時と同じ言葉を口にした
優しい人はいなかった
泣いている人や怒っている人はたくさんいたけれど、笑ってる人はいなかった
「何のためにやってるんだ、こんなこと」
「仕事だからです」
「やりたくなければやらなければいいのに」
「僕は組織の駒ですから、やれと言われれば何だってやります」
繰り返される問い
答える自分
「人を殺せといわれれば殺すのか」
「殺してきました、実際たくさんの人を」
罪を暴かれるような気持ちになる
懺悔するような気持ちになる
「それでいいのか、おまえは」
「仕方がないでしょう、仕事なんですから」
「そうまでして、仕事がしたいか」
「したいです、あの人のパートナーとして恥ずかしくないプロになるために」
世界を知りたいという欲求はいつしか、2番目の理由に変わっていった
鳥羽にふさわしい人間になりたいという想いが何より強くなっていった
「なぜあの男にこだわる
 彼が特別優しいわけでも、特別お前を大切にしてくれるわけでもないのに」
「あの人が僕を特別扱いしなくても、僕にとってはあの人が世界なんです」
それは極上の特別
何より誰より、唯一
身も心も捕らわれて、いつのまにか離れられなくなっていた
全てが支配されていた
あの人に
あの人に
「そのために、どれだけの人間を傷つけてきたか考えないのか」
「考えません」
「死者の想いはどこへいく」
「知りません」
「忘れるつもりか、自分のしてきたことを」
「ずっと目を背けてきました、これからだってそうし続けます」

本当に忘れられるなら、全部きれいに忘れてしまいたい

ぐるり、
世界が回って、眩暈がしたと思った途端、蒼太は胃の中のものを一気に吐き出した
ボタボタと落ちる液体
もう慣れた行為、見慣れたもの
この身体に毒への耐性をつけるために、毎日毎日毒を服用して、慣らしてきた
強い毒になるたびに、吐いたり気を失ったりした
身体はじわじわと毒なんかでは死ななくなり、
普通の人間とはどこかかけ離れていった
こんな風に心にも毒を入れて 多少の毒など感じなくしてしまえばいい
そう言い聞かせて 目を逸らし、考えないようにして、
別の仕事のことで頭をいっぱいにして生きてきた
自分でそう言ったように、
他人のことなど、気にしている暇はないのだから

なのに、なのに、繰り返し夢を見る
ふと気をぬけば、考えている
気にしている暇はないと言いながら、思考が沈む
悲しいくらいに、忘れられない

「あなたみたいな人は、向いてないわね、こういう仕事は」
誰だったか、女がそう言った
「おまえの性格ではやりにくいだろう」
男もそう言った
「考えすぎると自分が辛いだけだろ?
 仕事のときは心を殺せ、すぎたことは忘れてしまえ」
組織の人間は皆 そうやって生きているんだと知っている
報酬を受け取った瞬間に、全てを忘れろといった人がいたっけ
何かで気を紛らわす、そういうものを見つけろといった人もいた
酒?女?ギャンブル?セックス?
それとももっと別のもの?

「眠れないのはヤワな証拠だ
 余計なことは考えるな、考えたって意味がない」

いつしか眠れなくなって
仕事のことで頭がいっぱいのはずなのに、何かのきっかけでふと思い出したり、睡眠を受け付けなくなったり、気分が沈んだようだったり、
それが嫌だから、仕事ばかりをするようになったり
そうして、バランスが取れなくなって壊れはじめたこの身体
ごまかし続けたツケが回ってきたのだと、心のどこかでわかっていた
忘れることなんてできないと、どこかで自分は知っていた
目を背けても、考えないようにしても
その事実が消えるわけもなく
傷つけた人が幸せになるわけもなく、死んだ人が生き返るわけもなく
犯した罪だけが、この身に積もっていくのだから

「なのにここから離れられない
 なのにあの人の側にいたい」

両方は手に入らないことも知っていた
安息と、鳥羽の隣
どちらか一つしか手にはいらないなら、安息などいらない
狂っても、壊れてもいい
鳥羽の側にいたい
もはや願いは、身勝手なものへと転化して
彼に認められたいとか、仕事ができるようになりたいとか
そんなのは単なる手段となり果てて
鳥羽の側にいるためには、彼のパートナーであるしか方法はないからと
そのために
この想いのためだけに、自分は誰かを欺いて、傷つけて、殺しているんだと

思った途端、足元から世界が砂となって消え去る気がした

「僕は自分が一番可愛いんです
 誰が死んでも、僕はあの人の側にいたい」
どんなに呪われても、
どんなに死体の山を築こうとも、
弱い自分は変われない
ここから、離れられない

「どうしたらいいのかなんて、わからない」

2度目の覚醒のときも、わけもわからず鳥羽の姿を見つめ続け
何かを話しかけてくれたその言葉を理解できないまま、また意識を落とした
どのくらいの時間、とか
どれだけの痛み、とか
どれだけの苦しさ、とか
感じているんだろうけれど、多分自分にとって そんなものはたいした問題ではなく
ただ、ただ、過去を辿るようなこの悪夢に溺れるようで
問いと答えを繰り返して自分を暴いていくのが まるで何かの儀式のようで
意識の下で足掻きながら、もがきながら
泥の中を泳ぐように、沈むように 夢をみつづけた
ここから這い上がれるなんて、思えないほど深い闇
自分の生きていた世界はこんな風だったのかと、
思ってとても、悲しくなった
世界の美しさを知っているのに
あらゆる街へ行き、あらゆる人に出会い、美しいものを見てきたのに
自分は醜いものだけを拾い、汚いものだけと関わり歩いてきた
そう思うと、情けないような、ぎゅっとなるような そんな種類のものを感じた
たった一人を追うあまり、たった一人を求めるあまり世界が狭くなってしまった自分
身動きできなくなった自分
小さな箱の中で窒息しそうになりながら、助けをもとめている
そんな滑稽な、自分

「こたえを、みつけられないのか?」
そう言ったのは、最近見た顔だった
「答えは決まってる、我慢すればいいだけです
 あの人の側にいたいから、この身の痛みも、人を殺すこともみんな、我慢すればいい」
荒い画像でしか知らない顔
若い男、遺跡にやたら詳しかった
「こたえは簡単だろうに」
彼とはこんな話はしなかっただろう、と思いながら 蒼太はザザ、というノイズのまざる顔を見た
「自分の私欲のために、殺人者になればいい」
「自分に嘘をついてまで?」
「そうしないと、あの人の側にいられない」
「そうしてまで、いる必要があるのか?」
「そうしてまで、側にいたいんです」
「本当に?」
「本当に・・・?」

やがて問いは自問に変わる
肢体が引き裂かれる痛みを強烈に感じて、叫び声を上げた
そして、その痛みを持ったまま覚醒する
治療開始から10日目、3度目の覚醒

「あ、あ、あ、あ、あ・・・・・・っ」
ぎりぎりと身体が痛むのに、体温が急激に上がるのを感じた
「ひっ・・・い、や・・・・・っ」
ガンガンと、頭を殴られ続けるような頭痛に吐き気が重なる
悲鳴を上げた喉から血が流れて息が詰まった
壊れている
この身体はもう、どうしようもないくらいに壊れている
「いや、いや、い・・・・っ」
ぼやける視界、空中をにらみつけた
覚醒すると何かを思い出しそうになるのに
それが何だか考える力がない
余裕がない
痛みに死んでしまう
呼吸ができなければ人は死ぬのに、この喉は空気を飲み込むことができない
「今度はマトモに覚醒したな」
「体力が落ちてるから心配だわ
 呼吸器をつけるわ、呼吸すらできないみたいだから」
「点滴が外れないように固定します」
「投薬はどうしますか?」
「今やってちょうだい、次いつ覚醒するかわからないから」
叫びながら、必死でもがいた
苦しみから逃げたくて、喚いた
身体の中のものを全部、取り出してほしいと思った
手も足も動かなくて、内臓は気持ち悪くて、頭は割れるように痛んで何も役に立たない
こんな身体など、いらない

呼吸困難で、蒼太は意識を落とした
精神が闇に落ちていく
また夢をくりかえす

「好きだよ、君が」
そう言われたのは、この何年かで10回くらい
ほとんどが男だっから、鳥羽が呆れたように笑ってたっけ
まぁその世界に受けがいいなら、仕事がしやすいかもなと
彼だけは、蒼太のこのどうしようもない性格を「武器」だと言ってくれた
人に従うこと
人に合わせること
誰にでも笑って接すること
実際それは この仕事の上で蒼太の大きな武器となった
取り入るのも、信用させるのも、
相手に合わせて振舞うと、やりやすかった
欺いて陥れるために、相手の側で心を許し
その身を差し出すことも多かった
そんなことは、何の苦にもならなかった
鳥羽がこの身に仕込んだもう一つの武器
それを使えば仕事がうまくいくのなら、と進んで使った
この世界は病んでいるから、そこで生きるならやはりお前も病んでいくだろうと
言ったのは誰だったか
預言者だったか、医者だったか、それとも教育係だったか
「組織なんかやめて、二人で幸せになろう」
その言葉を、冷めた心で何度も聞いた
幸せって何だろうと、いつも思った
自分にとっての幸せは、鳥羽の側にいることだ
それ以外にはありえないと、そう思ってきた
だから、壊れても、壊れても、この世界にしがみついてきたのに

「本当に?」
「本当・・・に・・・?」

気付けば自分は遺跡に立っていて、足元は今にも崩れそうで
男が目の前で、まっすぐにこちらを見ながら口を開いた
「鳥羽さんの側にいて、幸せか?」
ノイズが混ざる
自分はマリオネットを介しているから音声も聞き取りづらいし、視界も悪い
「今、幸せか?」
足元が、揺れた
答える暇はなかった
もろくなった遺跡、ひび割れだらけ、いつ崩れてもおかしくない
粉々になって積もる
そして風に飛ばされて、何もなくなる

何もなくなる

今度は冷たい地下道だった
水が染み出して濡れているような場所
体力も気力もギリギリな中、セックスして、人を殺した
軍人は、死ぬ覚悟くらいしてるでしょ?
スパイだったなら、なおさら
みんなプロなんだから、この程度のことは、想定内でしょう?
僕は僕のすべきことのためにここにいるのだから、あなたたちの命なんて優先してる暇はない
だから、助けなかった
これは仕事なんだから、と言い聞かせて動く
自分はそれができる人間だった
やるべきことはわかってる
ただ、やりたいことが、わからないだけ

何のためにここにいるのか、何がしたいのか、見失っていく
足掻くことに必死で、何が掴みたかったのか忘れてしまったのかもしれない

「僕はどうしたいんだろう?」
真っ暗な中、自問した
「僕は何を考えてるんだろう?」
こたえは、みつからなかった
ただあるのは、まるで神みたいな存在だけ
支配する、あの人の名前だけ

「鳥羽さん・・・・・」

治療を開始して、15日目、360時間が経とうとしていたころ
蒼太はぐったりとした身体をベッドへ横たえて、両手両足を包帯だらけにして眠っていた
3度目の覚醒からはずっと意識がなく、暴れることもせず
医者は、身体の中の麻薬は全て抜けたと言って部屋を出ていった
あとは延々と生命を維持しているだけ
自力で目覚めるまで、待つだけ
こんな風に人形みたいに寝かされて、身体中は色んな管で繋がれて
たまに電気でショックを与えたり、脳波を測定したり、
血を抜いたり、手足の傷の手当をしたり
「目覚めませんね・・・」
「5日昏睡状態が続くと危ないと言われてるわ
 ゼロは今日で5日ね」
今日目覚めなければ無理かもしれない、と
テレーゼの言葉に鳥羽は大きく溜息をついた
「まぁ、ここで死ぬなら死ぬで、その方が幸せかもなぁ」
ベッドに腰掛けて、見下ろす真っ青な顔は ピクとも動かずまるで死体のように見える
「せっかく苦しい治療を耐えたんだもの
 ここで死んだらかわいそうだわ」
「そうかな、こいつ死にたがりだからな
 案外今も、死にたがってるのかもしれんぞ」
鳥羽の言葉にテレーゼが苦笑した
部屋はとても静かで、動いているものは二人しかいない
「声をかけてあげて、祐二
 あなたの声なら戻ってくるかもしれないわ」
「おまえはさ、ゼロには優しいよな」

鳥羽の言葉に、やっぱりテレーゼは苦笑した
「私とゼロは同志なの
 私は苦しそうに生きてるあの子がかわいそうで、可愛くて、たまらないわ」
「ふーん、妬けるね」
「どっちに?」
どっちに、と聞かれて 今度は鳥羽が苦笑した
「オレにとってゼロはパートナーだが、それ以上にはなり得んよ?」
「あの子が求めても?」
「求めるようなバカじゃないだろ」
冷たい言葉に、テレーゼがわずかに目を伏せた
視界の先、蒼太は死んだように眠っている
このまま死んだほうが、鳥羽のいうように幸せなのかもしれない
あの鳥羽が、15日間もずっとここに居続けた
治療に入る前、蒼太にそういったように
ずっと側にいた
蒼太がいつ覚醒しても、鳥羽がここにいると安心できるよう
治療の苦しみと戦っている蒼太を見守り続け、声をかけつづけた
だが、それも今日が最後だ
今夜目覚めなければ、明日から鳥羽は蒼太を捨てて仕事に行ってしまう
その後目覚めて 捨てられたことに泣くくらいならいっそ、
このまま死んだほうが、幸せかもしれない
「少し席を外すわ、やらなきゃならないことがあるから」
「はいよ」
「祐二は、何時までいてくれるの?」
「明日の朝まで
 その後は新しい仕事が入ってるからな」
15日間も休暇を取ったから、仕事が山積みだと 鳥羽はわずかに苦笑した
もしかしたらパートナーを失くすかもしれないという悲壮感など、鳥羽にはなく
外見からは、鳥羽の考えていることは何も読めなかった
静かに、テレーゼは部屋を出ていく

蒼太は、闇の底に横たわっていた
堕ちるところまで堕ちた、ここはその、一番底なんだと感じる
(這い上がれないかもしれない・・・)
身体が動かなかった
現実の続きのように、意識ははっきりしていて、思考もできた
身体はもうなくなってしまったかのように 何も感覚もなく
何も動かせず、ただ転がっているだけしかできなかった
(戻れないかもしれない・・・)
そう考えると、びりびりと何か電気みたいなものが魂を震えさせるようだった
麻薬をぬくための治療は死ぬほど苦しいのだと知っている
自分がなくなってしまうような空虚に襲われることも知っている
身体の痛みはいつか麻痺して、
熱も、痺れも、そのうちどうでもよくなって
思考できないことも、ただ苦痛に叫ぶだけのものになることも、仕方がなくて
それが無様だとか、救いようがないとか、苦しいとか、悲しいとか、
そういうことすら考えられなくなるくらい、堕ちて、堕ちて、堕ちる
そして、ここにたどり着く
何もなくて、真っ暗で、寒くて、ただ静けさだけが横たわっているそんな場所
(戻れないなら・・・それも仕方がないよね・・・)
怖いのを必死に我慢して、逃げ出したいのを必死に押さえつけて
治療をはじめたのは もうどれくらい前だったか
痛みも悪夢も、吐き気も眩暈も、全部我慢して
たった一人、世界に取り残される感覚に捕らわれて それでも耐えて
堕ちて、沈んで、からっぽになって、何者でもなくなってまだなお生きている
ただ生きているだけというだけ
ここには誰もいなくて、何もない
こんななら、死んでしまっても同じだろう
戻れなくても、仕方がないだろう
(・・・一人なんだし・・・)
そう考えて また何かを思い出しそうになった
何だったか、覚醒するたびに思い出しそうになったことがあった
何だったか
考えても答えが出ない
だけどとても大切なことだと、そんな気がする
(・・・やっぱり思い出せない・・・)
諦めて、蒼太は思考をやめた
必死に足掻いて戻る必要はないのかもしれない
苦しいのを我慢していた理由も、もう忘れてしまった
与えられる痛みに耐えていた意味もわからない
自分がもっていたものは、この底にたどり着く前に 全部消えてなくなってしまった
今はただ、静かな闇があるだけ
(死んでもいいよね・・・)
そう考えて、ふと身体が温かくなった

それはとても、優しいものの気がして
それこそが、ずっと 自分の求めていたものだとそう感じた
(そうだ、僕は死にたかった・・・)
ではなぜ今まで生きてきたのだろう
どうして、こんなに辛いことを我慢してまで、必死に生きてきたのだろう
(わからないけど)
わからないことだらけだと思いながら、静かに呼吸した
死にたかったなら、死ねばいい
誰も待ってなどいないのだから
誰も蒼太など、求めてないのだから

「治療して、戻ってこい
 オレはそれを望んでる」

ふと、頭の中で声が響いた気がした
ドクン、と
なくなったはずの心臓が音をたてた
(ちりょうしてもどってこい)
そう言ったのは誰だったか
散々 夢を繰り返して、過去に飛んだりしたものだから
過去に出会ってきた色んな人と会って、殺したり、殺されかけたり、罵られたり、泣かれたりしたから 誰が何と言ったのだったか、混乱してよくわからなかった
(おれはそれをのぞんでいる)
誰の言葉だったか
いつ、聞いたのだったか
(しぬほどつらくても)
(ここにいてやるから)
(いてやるから)

その覚醒は、突然訪れた
ずっと思い出そうとして、思い出せなかったこと
この言葉だ
鳥羽が言ってくれた言葉
死ぬほど辛くても、戻ってこいと
ここにいてやるから、と
そう言ってくれた言葉、何より嬉しくて
その言葉があったから 恐怖も我慢しようと、苦痛も耐えようと思った
必死で足掻いた
命を諦めなかった
「鳥羽さ・・・」
思考をやめて声を出した
搾り出すような声
ずっと一人で黒い中を漂っていたのに、
返事をする人なんて、いなかったのに、
「起きたか、ゼロ」
ぎし、と
わずかにベッドのきしむ音がして、声が聞えた
見上げた先、かすむ視界に映る人
あなただけを求めてる、と
あなたがいるから、ここにいるんだと
言ってしまいそうになるくらい、この身も心も支配する人
その姿を捉えて、震えた
もう何も考えられなかった

部屋には、煙草の香りが漂っていて
時計は朝の5時を指していた
「ギリギリだったな」
鳥羽は言い、ぷか、と煙草の煙を吐き出した
「1本吸ったら行こうと思ってたんだけどな」
ここは禁煙だし、この後仕事が入ってるし、と
その声に震えた
泣きそうになった
戻ってきた心の痛みに、泣くことしかできなかった
戻れてうれしいと思う
だけど、あのまま死んでいたら楽だっただろうなとも思う
15日間も、鳥羽はこんな状態の自分つき添ってくれていて
仕事もせず、蒼太を待っていてくれた
それが嬉しくて、
なのに、同時に心が痛む
もうわかっているから
それでも自分は鳥羽の中ではただのパートナーでしか有り得なく、それ以上を求めてはいけないとわかっているからこそ 苦しくて、恋しくて、悲しくて
ここに戻ってきたということは、この痛みもまた抱え続けていかなければならないのだと
そう思ったら、涙が溢れた
欲しいもの両方なんて、手に入れられないのだ
どうしたらいいのか
どうしたいのか
こたえはまだ、出ていない


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