ZERO-32 ノラ猫 (蒼太の過去話)


蒼太が医者の診断と処置を受けて、アパートの場所を組織から聞いた時にはもう夜中だった
あまり治安が良くないこの辺りでは先日殺人があっただの、女性が襲われただの
夜はかなり物騒らしく 医者から今夜は近くのホテルにでも泊まるよう勧められた
だがなんとなく、足がこっち方へ向いてしまって
ぼんやりと、考え事をしながら 蒼太はアパートへの道を歩いていた
今 鳥羽は何をしているのだろう、とか
どのくらいで ここに来れるのだろうか、とか
仕事で緊張していた気持ちがゆっくりと溶けていくのを感じながら
何もしなくていい、ただ待つだけのこれからの時間
どうやって過ごそうかと、ため息をついた
何かしていないと落ち着かない
余計なことを考えてしまわないように、考えなくていいように
早く次の仕事がしたい
鳥羽と一緒に世界のどこまでも、でかけていきたい

(ああ、ここだ・・・)
携帯に転送したアパートの住所と 目の前の建物に表示されてある住所を見比べて 蒼太は足を止めた
鍵は管理人が持っていると組織から聞いているが こんな時間にはもう眠っているだろう
場所は確認したし、朝まで近くのカフェで時間でも潰そうか
それともこのまま街を歩いてみようか
どこかうわの空で考えていた蒼太は、その思考のせいで人の気配に気づかなかった
「よぉ・・・」
少し遠くで、声がかかる
「おまえ、こんな時間に何してるんだ?」
また声がかかった
それで初めて我に帰って 声のした方を向く
一人、二人、三人
ガラの良くない男が3人、蒼太の方へゆっくりと歩いてきていた
こんな真夜中の、治安のよくない街で、こんな人種に声をかけられたら、逃げるが勝ち
相手との距離は2メートルも離れていなかったから、今からダッシュしても逃げ切れるかわからない
迷っている暇はない、はずなのに
(・・・)
蒼太は動かなかった
どうでもいい、という気持ちが心のどこかに生まれている
ただ黙って、相手を見た
ゆっくりと足を進め 男達は蒼太を囲む
そうして、キラリと光るナイフを蒼太の目の前にちらつかせた
「日本人か? だったら金持ってるだろ?」
目をやられているから、今の蒼太は久しぶりの裸眼だ
髪も前の仕事で黒く染めたから、今の姿だとちゃんと日本人に見えるのだろう
一人が蒼太の肩を掴んで 逃げられないようにした
「いくら持ってる?
 ここらで何してる?」
にやにや、と
嫌な笑いを浮かべている男の言葉に どう答えようかとぼんやり考えた
金を取られるのも、ここで殴られるのも、ナイフで切られるのも 怖いことではない
命のやりとりをしている仕事のプレッシャーに比べれば こんな脅しは何でもなかった
心は動かない
やりたいなら、ご自由にどうぞと
どこかそんな気持ちでいる
目の前の出来事に実感がなく、映画でも見てる感じがした
仕事に気を張り詰めすぎて、
隣に鳥羽がいなくて、こんな空いた時間 どうしていいのかわからずに
まるでこれが夢みたいに感じている
恐怖も、その他の感情も 今はあまり感じなかった
「言葉がわからないんじゃないのか?」
「だったら、探してもらってくか
 こいつ、大人しくしてるしな」
両側の男が笑いながら話している
訛りの強い言葉
右の男が蒼太の首元にナイフを突きつけたまま 上着のポケットに手を突っ込んだ
抵抗しようと思えばできたけど、やっぱり動く気にならなかった
なんだろう
全てが面倒くさいというか、何というか
(薬のせいかな・・・)
目の治療の後は 薬がきつすぎていつもダルかった
久しぶりにそれを受けたから こんななのだろうか
考えるのも億劫な気がして、蒼太はただされるがままに大人しくしていた
黙って立っていて終るなら、それもいい
「おい、何してるんだ」
だが、その時
強い口調のよく通る声が響いた
瞬間、真ん中の男がはじかれたように振り返る
と、同時に その身体は右側の男にぶつかって 二人とも道路にはじかれたように吹っ飛んで転がっていった
蒼太の喉に当てられていたナイフが 男がふっとんだ衝撃に ピっと赤い血を飛ばして蒼太の肌を切る
薄皮を切ったこの程度では、痛みなどあまり感じないけれど
「おまえ・・・っ」
残った左側の男が 相手の顔を確認して身構えた
だが、やはりすぐに、その身が沈む
バキ、と
痛そうな音がしたから、殴られたのだろう
顔面を押さえて呻いているのをさらに蹴りつけて 声の主は蒼太の前に立った
心配気に蒼太を見て 首から血が流れているのに気づくと大袈裟に心配するような顔をする
優しそうな雰囲気なのに、あの強さ
格闘技でもやっているのだろうか、とぼんやり考えながら蒼太は無言で男を見上げた
「大丈夫か?」
かけられた言葉は、やはり少し訛りがあった
ここら辺り独特の喋り方だろう
男の目が心配そうに、一度だけ揺れた
「手当てをしよう、オレの部屋へおいで」
しっかりした口調、
蒼太が何か言う前に、男は蒼太の腕を取ってアパートの階段を上りはじめた
見かけによらず、強くて
優しそうなのに強引なんだな、と思った
この程度の傷 なんともなかったけれど
抗うのも面倒で、蒼太は腕を引かれるがまま、男について階段を上った
彼が奴らから助けてくれたのも事実だったから、お礼も言わなければならないし
何より考えて行動するのが、今はとても億劫だった

「助けて頂いてありがとうございました」
「いや、オレこそすまない
 君に怪我をさせてしまった」
「いいえ、このくらい平気です」
部屋で蒼太の手当てをしながら 男は何度も蒼太に謝った
部屋には大きなテレビとたくさんの数のビデオ、
壁には写真やポスターが大量に貼ってあった
なんとなく、写真や映画が趣味なのかなと考える
「こんな時間に一人で歩いているのは危険だ
 誰か知り合いに会いにきたのか?」
「ここに部屋を借りるつもりできたんです」
男は、蒼太の手当てを終えると インスタントのコーヒーを煎れはじめた
おかまいなく、と思ったけれど 言葉にするのも面倒で 出かけた言葉は飲み込んだ
やっぱり身体がだるい
片目で生活するのにも そろそろ慣れたはずだったけれど、やっぱり負担がかかるのか
それとも治療の薬の影響か
何もすることがないこの時間を どうしようもなく悶々ともてあましているからか
蒼太は壁の写真を見ながら小さく溜め息をついた
しばらくすると、温かいコーヒーが蒼太の前に置かれる
「今、このアパートに空きはなかったと思うが?」
「僕の友人・・・が、部屋を持ってます
 そこを借りることになってるんです」
302号室、と
言うと男は ああ、とうなずいた
コーヒーに一口、口をつける
変わった味がした
まるで塩でも入れたかのような変な味だ
彼はこういうことが、不得手なのかもしれない
「2つ隣の部屋だな、
 オレがここに引っ越してきて一度も姿を見てないと思っていたけど、あの部屋の持ち主は 他に家を持ってるのか?」
「はい」
適当に答えて、蒼太はわずかだけ笑った
いつもは もっとにこにこするのだけれど
自分から話しかけて相手を知ろうとしたり、こちらを気に入ってもらおうと無意識にふるまっていたりするのだけれど
今日はそんな気にならなかった
何もかもが面倒くさい
(疲れてるんだな・・・)
だからこんな風なのだ
人と話すのも、何かを考えるのも とても億劫だった
朝になって管理人が起きれば、さっさと一人になって部屋でゆっくり眠りたい
眠れるか、わからないけれど
「管理人はここには住んでない
 朝になったら来るから、それまでこの部屋にいるといい」
「これ以上、ご迷惑はかけられません」
「迷惑だと思ったら助けたりしない
 外は危ないから、ここで眠ればいい」
押しの強い男の言葉に、逆らうのはとても面倒だった
朝まであと5時間ほどだ
それだけ経てば解放されるなら、と考える
相手を伺うように見上げて それから微笑した
「すみません、ありがとうございます」
そして、そっとため息をついた
こんな状態の自分だから、誰かが側にいたほうが余計なことを考えなくてすんで良いのかもしれない

男は名前をシモンといった
蒼太にベッドを明け渡して、自分はソファで横になり、5分もしないうちに眠ってしまった
窓際のベッドに横になって、ぼんやりと天井を見ながら 蒼太はいつまのにかまた、過去の仕事のことを考えていた
出会った人達、その中で不幸になったであろう人、死んだ人、殺した人
いつも考えないようにして、目を背け
新しい世界や、新しい仕事のことで頭をいっぱいにしてきた
鳥羽は仕事が好きだったから、一つの仕事が終ったらすぐに次の仕事を受けて出かけていく
レベルの高い仕事には それなりのスキルや知識が必要で
仕事があれば、考えることは山ほどあった
新しい言葉を覚えるのに必死になったり、必要な知識を得るために大量の文献を読み漁ったり
頭がパンクしそうで辛くても
こんな風にぐるぐると、同じ思考を繰り返しているよりずっと楽だ
心に負担がかからない
目の前の課題をこなすだけなら、心はこんなに痛まない
(鳥羽さん・・・)
心の中で呼んでみた
支配者の名前
テレーゼに言われた言葉が忘れられない
自分を取り戻しなさい
あの人に世界を支配されていてはいけない
彼を失ったらどうするのか、
砂の城のような不安定な精神で、この世界は生きていけない
いつか壊れて崩れてなくなってしまう
(でも・・・僕は・・・)
どうしていいのかわからない
自分など、どこにあるのかわからない
鳥羽に拾われて、教育され、一緒に過ごすうちに 全てが鳥羽に染まっていった
彼の与えるものに、震えながらも求めることしかできなくなった
こんな状態であることを、鳥羽が知ればその場で捨てられそうなほど これは醜い感情だ
(眠りたい・・・何も考えたくない・・・)
そう思ったけれど、目を閉じても眠りは訪れなかった
考えたくないのに、思考はぐるぐる繰り返される

朝、7時にベッドから置きあがった蒼太は 結局一睡もできないまま朝日の差し込んだ部屋を見回した
まだ静かなアパート
トントン、と ドアの外で階段を上る音がする
まだ気が昂っているのだろうか
目をやられて以来 感覚が鋭くなったままなのかもしれない
そっとドアをあけて、外に出た
見遣るとふきぬけの階段の1階に 太った女性がいる
彼女が管理人だろうか、と
蒼太は そっとドアを閉めて1階へと下りていった
早く鍵をもらって、一人になりたい
仕事以外で他人といるのは疲れる
もうずっと眠っていなくて、治療の薬のせいもあって気だるくて
人に気を使うようなことは なるべくしたくなかった
まるで抜け殻になったような気持ちだ

「あら、今度は可愛い男の子なのね」
管理人は明るい女性だった
昔は美人だったんだろうなと思わせるはっきりした顔立ち
にこやかに笑って蒼太を見た目は、年を感じさせないキラキラしたものだった
「ユージは戻らないの?
 あの人めったに、顔を見せてくれないわね」
もう2年くらい会ってないわ、と
言いながら 彼女は鍵を蒼太に渡した
「2年くらい前までは 派手な女が住んでたの
 一時ユージと同居してたわ
 まぁ、あの人がここに落ち着いてたのは2ヶ月程度だったけど」
よく話す人だな、と思いつつ
蒼太は笑って鍵を受け取り、また階段を上っていった
鳥羽は世界中にマンションやアパートを持っている
そこに女を住ませていたり、仕事のときに自分の拠点にしたりしているらしく
ここにも、昔 恋人が住んでいたと聞いても別に驚くことでもなかった
定期的に私が掃除をしてるから綺麗よ、と
管理人は笑っていたっけ
彼は毎月初めの金曜日に花束を贈ってくれるのよ、と
嬉しそうに言った彼女の様子からして、彼女も鳥羽を好きなのかもしれない
昔は恋人だったこともあるのだろうか、と
二人の年齢差を計算して、蒼太は苦笑した
鳥羽が十代の頃ならありえるか、などと考えると少しだけ可笑しくなった

一度、シモンの部屋に戻り 置きっぱなしになっていたバッグを取ると まだ眠っているシモンを置いて蒼太は自分の部屋へと向かった
鍵を開けて中に入ると、そこはソファとテーブルとベッドしかないシンプルな部屋だった
組織の鳥羽の部屋によく似ている
彼は 身の回りにあまりものを置きたがらなかったから
(ほんとだ・・・綺麗に掃除してある・・・)
テーブルも床もほこりはなく、ベッドも整えられている
ぽすん、と
ベッドに腰掛けて そっと息をついた
以前ここに住んでいた女ってどんな人だろう
あの仕事人間の鳥羽が、2ヶ月も同居したなんてよほど特別な人だったのか
それとも、仕事のターゲットだったのか
(・・・僕には関係ないか・・・)
寝転がって天井を見つめる
目を閉じても眠りは訪れなかったから、5分ほどで眠るのは諦めた
鳥羽が戻ってくる間、ここで何をしようかとまた考えた

シモンは昼過ぎにようやく起きた
「なんだ、もう起きてたのか」
「はい、お世話になりました
 管理人さんに今朝 鍵をもらいました」
「そうか、それはよかった」
笑ったシモンは まだ眠そうな顔をしながら蒼太を見て それから思いたったようにテーブルの上のメモに何かを書いた
「ゼロ、君の目の傷はちゃんと医者に見てもらってるか?
 オレの知り合いにいい医者がいる、
 このメモの場所だ、行ってみるといい」
「・・・ありがとうございます」
片目にしている眼帯は目立つのだろう
服の下の包帯も見られたらメモでは済まないだろうなと思いつつ 蒼太は笑ってそのメモを受け取った
この町には組織から派遣された医者がいる
昨日も治療に行ったし、2.3日たったらまた行くだろう
シモンの紹介する医者なんて必要なかったけれど、そんなことはあえて言わなくてもいいと そう思った
「じゃあ失礼します」
「ああ、まてゼロ」
早く1人になりたいのに、と
思いながら 蒼太はシモンを見上げた
「夕方 一緒に買い物に行こう
 それから出会えた記念に、一緒に夕食を食べないか?」
この町は初めてだろう、と
彼なりに 蒼太の面倒を見てくれているつもりなのだろう
こうやって誘ってくれるのだから 彼は蒼太を気に入ってくれたのだろう
たとえ あまりありがたくない申し出でも断って波風をたてたくなかった
面倒だけど、仕方がない
どうせ何もすることがないのだし
「ありがとうございます」
にこ、と
また笑ってみせた
それで、シモンは満足し
ょぅゃく1人になった蒼太は 部屋へと戻った

そして、そこで1匹の猫を見つけた

「・・・お前、どこから入った?」
さっき開けた窓から入ったのだろうか
側に木があるから不可能ではないだろう
その猫は大分年をとってるようで、ゆっくりとした動作で 蒼太を見上げるとニァーと鳴いた
「鳥羽さんの猫なのか?」
首輪はしてない
だがその割に この部屋に慣れているようで てくてくと歩いて日当たりのいい場所に落ち着こうとしている
「お前、ノラなのか?」
そっと手を伸ばして その身体を抱いた
毛並みはあんまり良くない
金に似た茶色の毛、がさがさした手触りは何となく何かを思いださせる
(僕の痛んだ髪みたい・・・)
くす、と 蒼太はその毛をなでながらわずかに笑った
飼い猫ではないだろう、やっぱりノラかと
思いながら その温かい体を抱いた
それで急に、自分の中の血液が流れはじめたような気がした

「はは・・・・、は」

とくん、とくん、と
猫の心臓が脈打つのが聞こえる
嫌がりもせず 蒼太に抱かれたままの猫は 目を閉じてゆったりと蒼太に身を預けている
その鼓動が心地よかった
仕事 の最中は意識を集中させている、いつもいつも
神経ははりつめて、擦り切れそうで
終っても 2.3日は気が昂ってる
最近は眠れないから回復も遅くて、
加えて負担のかかる怪我と、治療
特に意識はしなくても、身体は悲鳴を上げているんだろう
今、この猫の体温で ようやく自分の身体に血が通い出したような気がした
ほっ、と
緊張がとけていく
「おまえ、あったかいな・・・」
ぎゅ、と抱き締めた
何故だか泣きそうになった
このノラ猫と自分が、何かとても似てるような気がして、悲しくなった
鳥羽が側にいない自分は、このノラ猫よりも惨めな存在なのかもしれない

(そうだ・・・惨めなんだ・・・)

もやもやと、心に黒いものがたまっている
必死になって、追い掛けて
なのに与えられなくて枯渇する
自分ばかりが求めて、求めて、求めて
Bランクに上がったと言われても嬉しくなくて、どんなに高額の報酬をもらったって何も感じない
鳥羽の求める仕事ができないから
鳥羽の求める冷徹な人間になれないから
蒼太は自分自身が好きじゃない
こんな自分は嫌だと、思っている
だからいつも惨めだ
どうしてこんななんだ、と悲しくて情けない気持ちになる
鳥羽に必要とされるような人間でありたいのに
そうなれない自分に、もやもやが晴れない
「加えて過去の幻影、ほんと嫌になる」
組織の人間は皆、割り切って生きている
仕事は仕事
肉を食べるとき いちいちそのために殺された牛や豚をかわいそうだとは思わないだろう、と
誰かが言っていた
それと同じ
仕事で関わる人間を いちいち可哀想だと思っていたらキリがない
考えなくていいんだと
仕事相手は単なる仕事相手で、関わる人間はモノだと思えばいいのだと
(みんな、それができるのに どうして僕だけできないんだ)
いつまでも、過去の仕事を引きずってるのは自分だけだ
いつまでも、幻影に悩んでいるのは自分だけ
「気にしても 過去に戻れるわけもなく、傷つけた人間が許してくれるはずもない」
鳥羽がそう言った時 蒼太は泣きそうだった
許してもらえるなんて思っていない
でも、その言葉はショックだった
甘い自分、許されたいと思っているのだろうか
あれだけのことをしておいて
ひきかえに、多額の報酬を受け取っておいて
「おまえは・・・惨めじゃない?」
鳥羽はノラと飼い猫なら ノラの方が自由でいいと言うだろう
でも蒼太はそうは思わない
ノラは寂しい
飼い猫は、世界の広さを知らなくても 飼い主がずっと側にいてくれる
だったら、
世界なんか知らなくていい
唯一の主人の側で一生を過ごせるなら、自分は誰かに飼われていたい
鳥羽と出会って 鳥羽が自分の全てになってから、もうずっとずっと、そう思ってる
「おまえはそうは、思わないのかな・・・」
すり、と
その毛並みに頬を寄せて 蒼太はわずかに苦笑した
以前、何かの時に猫を拾った蒼太に 鳥羽が言ったっけ
ノラの自由を奪ってどうする
恨まれるぞ、と
彼はその猫を飼うことを許してくれなかった
だからきっと、この猫も鳥羽の猫じゃない
誇り高きノラだ
世界を知ることを選んだ、自由を選んだ強い猫だ
今の自分は絶対に、そういうものにはなれなくて
鳥羽は そういうものの方を好む
わかっている、だから隠してるんだ
「気付かれたら、おわりよ」
テレーゼの言葉がまた甦った
気付かれないように隠し続けて、欲しいと言うことができないまま
それでもずっと、できるだけ長く 鳥羽の側にいられるなら
自分はこの世界で生きることを選ぶ
魂の安息なんて、いらない

蒼太は、シモンが部屋をノックするまでずっと、窓の下で猫を抱いていた
色んなことを考えながら、ただ時間が過ぎるのを待っている
そんな感じだった
「何? その猫」
「入ってきたんです、ノラ猫だと思いますけど」
猫を床に下ろして 蒼太は笑った
今から買い物に行くから、この猫のためのミルクとかエサとか
そういうものを買ってこよう
あれはノラだから 気紛れに出ていってしまうかもしれないけれど、それでも
もし戻ってきてまだ部屋にいたら、ミルクをやってエサもやろう
そんなことを考えて、蒼太は部屋を出た
シモンが、この町のことや仕事のこと
今夜の夕食のメニューのことを話していたけれど、あまりよく聞こえなかった
そろそろ、身体が限界なのかもしれないと考える
前の仕事の最中から 眠っていないからもう何日寝ていないのか
数えたら、自分の限界をとっくに超していた
いい加減、やばいなと ぼんやり考える

夕食の準備をしている途中 蒼太の身体は限界を迎えた
バタン、と
自分が倒れる音が聞こえたと思いながら 目をあけることができなかった
遠くで呼ぶ声がしたけれど、返事をすることもできず
ただ、ぐるぐるした思考に飲み込まれるように、どこかに堕ちていくような感覚に捕われて
そのまま気絶した
あとは何も覚えていない

「・・・う・・く・・・・」
目が覚めた時 蒼太はベッドに横になっていた
ここは自分の部屋だ
倒れたのを覚えている
シモンの部屋で一緒に夕食の準備をしていた
彼の得意料理だという肉料理と、スープを作るのの手伝いをしていた
イモの皮をむいたり、野菜を切ったり
その途中で、意識が遠くなった
かろうじて、もっていたナイフを置いて 側のテーブルに手をついて身体を支えようとして
それから記憶がない
彼が、この部屋まで運んでくれたのだろうか
あんな風に倒れてしまったから、驚かせただろうな、と
思ったら、額に冷たい手が触れた
「気分はどうだ? ゼロ」
「・・・すみません、僕」
「具合が悪かったのに引っぱり出してしまったんだな
 身体中 傷だらけだったから驚いた
 そんなに怪我をしてるのに、どうして病院じゃなくてこんなところにいるんだ」
どこか咎めるような、心配するような口調
ああ、昔 こういう風に傷だらけの自分を心配してくれた人がいたな、と
ふと思い出した
あれは寒い寒い国だった
蒼太を幸せにしたいと言って、組織をやめろと言ったっけ
その人の名前も知らないまま別れたけれど、彼は蒼太のために泣いてくれた
君は幸せになるべきだ、と言ってくれた
あの頃の自分は、鳥羽しか見えていなくて
思えば、あの頃も今も、何も変わっていない
自分は全然進歩していない
追い掛け続けて、鳥羽を思う気持ちはさらに重症になっている
「入院していたんですが、よくなったので退院してもいいって言われたんです
 さっきはちょっと、目眩がして」
口からでまかせ、いくらだって言えた
もっともらしい顔をして、もっともらしい嘘をつく
いつもそうして生きている
蒼太の仕事は人を騙して情報を得ることだ
人を不幸にして、自分の仕事を成功させる
そうやって、生きてきた
今までも、
だからこれからもきっと、そうやっていく
「薬をお医者さんからもらってるから大丈夫です
 すみません、せっかく夕食に誘っていただいたのに」
起き上がろうとしたら、強い力でベッドへ戻された
「だめだ、寝てないと
 日本人は無理をするとよく聞くけど、本当なんだな
 具合が悪いならそう言え、無理をさせたいわけじゃない
 食事は君が元気になってからでいいから」
髪を撫でる手が、無性に悲しかった
そういうことをしないでほしい
あの人を思い出すから
いつも蒼太を子ども扱いして、
いい子だ、とか
えらいえらい、とか
そうやって笑うあの人を思い出すから
(鳥羽さん・・・)
ぎゅ、と
シーツを強く握りしめた
作り笑顔でシモンを見上げる
「ごめんなさい、でも大丈夫です」
薬を飲めば治るから
ちょっと疲れが出たんだと思います
明日、夕食会のやり直しをしてください
心配かけて、本当にごめんなさい
「今夜は、このまま眠ります」
そう言ったら、シモンはうなずいて笑った
「おやすみ」
おやすみなさい、と
目を閉じたら 足音が遠ざかって、ドアの閉まる音がして
やがて部屋は静かになった
小さく息をつく
そうして目を開けた
眠れないことは知ってる
彼のせいで思い出してしまったから、また昔のことを考えはじめていた
あれから彼はどうしたのだろう
幸せになったのだろうか
それとも、不幸になったのだろうか
他の人は?
蒼太が関わってきた人、欺いた人
はめた人、騙した人、陥れた人、利用した人、傷つけた人
色んなことを思い出した
かんがえたって一緒なのに
過去は変わらなくて、
それで心を痛めたって、自分はこの仕事をやめないのだから
この世界で、生きていきたいと思っているのだから

時計で確認すると、気絶していたのは3時間程だった
眠れないのは問題がある
こんな風にまた倒れたら、今度は医者に連れていかれるかもしれない
包帯の下を見られたら、いくつもの焼き印の痕や傷を不審に思われるだろう
眼帯だけでも目立つのに、身体中に包帯を巻いているなんて
それでなくても彼は 蒼太を異常に心配しているし
(・・・せめて、眠れたら・・・)
体力を回復しなければ
なんとかしなければ、と
蒼太は溜め息をついた
あまり頼りたくないけれど、明日医者に行って睡眠薬でも貰うしかないのだろうか

朝、一番に医者へ行った蒼太は、睡眠薬をもらって帰ってきた
目の治療に強い薬を使われて、やつぱり身体はだるかったけれど気分は昨日ほど悪くはなかった
昼前に部屋へ戻り 何も食べずに薬だけ飲んでベッドへ入る
目を閉じたら、30分ほどで眠りが訪れた
じわじわと、何かが身体を蝕んでいくような眠り
黒いものに巻き付かれて、息苦しかった
呼吸の仕方を忘れてしまったようだ
喘いでも声は出ず、ぱくばくと口だけが開閉する
咽がヒューヒューいう音が耳につき、わずかだけ体内に入っていく空気を必死に求めた
大きく口を開けて空気を吸い込もうとしたら、いつのまにかそこは水底で
口や鼻や耳の、あらゆるところから水が入り込んでくる苦しさに身体が冷たく、冷たくなった
知ってる、これは水攻めだ
鳥羽に教えられた拷問の辛さ
自分が相手に何をしているのか、どの程度の苦しみを与えているのか知っておかないとな、と
毎日のように繰り返された数々の行為
痛みと苦しみを与えられるだけの日々
泣いて、泣いて、泣いて、
許しをこうて、もがいて、あがいて、悲鳴を上げて、また泣いて
それでも、それが鳥羽の手で与えられるものだったから 蒼太は耐えることができた
彼がこの身に刻むなら、なんだっていい
なんだっていいから、欲しい
欲しい、欲しい、欲しい
狂ったように、心の中で叫んだ
いつも必死にもがいていた
声に出して言えないから、その想いは身を焦がして心を狂わせた
だからこんなにも、自分は自分を失ったのだ
「鳥羽さん・・・っ」
飢えている自分を ずっとずっと感じている
思えば最初の出会いから、鳥羽は自分にこの枯渇感を与えた
最初から、蒼太は彼を求めていた
「鳥羽さん・・・捨てないでください・・・」
暗闇を必死に探した
目が見えない
そうだ、両目は抉られたんだった
手を伸ばした、でも手はそこになかった
そうだ、手は切り落とされたんだった
「鳥羽さん・・・っ」
すがるように呼んだ、でも声はでなかった
そうだ、咽はつぶれたんだった
走ろうとした、でも足は動かなかった
そうだ、足は折れたんだった

「おいていかないでください」

叫び声は 自分の体内にだけ響いていった
思考がぐるぐると世界を回す
何もかもが真っ黒で、重くて、身体にまとわりついていて
まるで蛇みたいにうねりながら この身体の中に入っていく
いつかの感触を思い出す
誰かがこの身から蛇の死体を引きずり出した
薬品の匂いのする死体、腐った動物の肉、泥沼、汚れた血、狂った人、異形の少女、叫んでる男達

「・・・・う・・・っ、は、く・・・っ」

それは全部 夢なんかではなくて、
どれも現実に見てきたものばかりだった
覚醒して、一気に体温が下がる気がした
ぜいぜい、と
荒い息を繰り返して、蒼太はシーツを掴んだ自分の手を見つめていた
冷たい汗が背中を濡らしている
呼吸が未だに、うまくできない気がした

(だから・・・睡眠薬って・・・嫌いなんだ・・・)
時計を見る
夕方の6時、ということは6時間くらいは眠れたのか
「でも、これで・・少しは・・・」
ゆっくりと身体を起こした
手はちゃんと身体についている
ベッドからおりると 震えていたけれど足も動かせた
あれは夢だ
きつい薬のみせる悪夢だ
「シャワーをあびて、着替えて、そしてシモンの部屋に行かないと・・・」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた
声も出る
ひどい気分だったけど、無理矢理に与えた睡眠で 身体も少しは回復しただろう
今夜もまた 薬で眠ればもう少し回復する
明日にはもっと、
そうしているうちに、鳥羽が来てくれる
新しい仕事が入って、そのことで頭をいっぱいにして
そしたら、妙なことを考えなくてすむから 今よりはマシな生活になる
眠ることだって、できるはずだ
こんなひどい眠りではない、
疲れて、疲れて
倒れ込むように眠る、夢なんかまったくみない いつもの眠りを取り戻せる
(1週間の我慢だ・・・)
1週間たつころには、鳥羽の後始末も終る
だいたいそのくらいだと思っておけ、と 彼はそう言っていた
今日で2日、あとたったの5日だ
「シモンの部屋に、いかないと」
ふらふら、と
蒼太はシャワールームへと向かった
何も考えないよう 意識して思考を閉ざそうとした

その夜は シモンの部屋で料理を作り直して 二人で食事をし、ワインを少しだけ飲んだ
彼が撮ったんだというビデオを1 本見て、
外国の美しい風景の中で笑ってる少年を オレの弟だと彼は言った
(この町・・・行ったことあるな・・・)
建物がとても綺麗な町
過去に仕事をしたことがある町だと思った
鳥羽と出会って世界中を飛び回り、世界は思ったほど広くないんだと感じた
色んなものを見た
知らなかった世界を知った
普通に生活していては見ることのできなかったであろう暗い世界
裏の世界のさらに奥底の、ドロドロとしたものまで手にすくって見るような そんな経験だった
人は醜い
人は狡い
だから人なのであって、そういうものに蒼太は興味を持っていた
今も、そうだ
美しすぎるものは怖い
そんなのは嘘だと思うから
醜いものは安心する
自分もとても、醜いから
そういうものにまみれて身を隠していなければ 安心できない
不安に、押しつぶされそうになる
「綺麗な風景がとても好きな子だった
 だから思い出に、できるかぎり撮ったんだ」
その口ぶりからして、映像の中の彼は死んだのだろうか
愛しそうに見ているシモンの横顔に そんなことを想像した
「思い出を、できるかぎり残したいんだ
 そうすれば、こうやって思い出すことができる」
ビデオの中の少年は笑っていた
シモン、と幼い声で呼び掛けてくる
それに答える声の主は映っていない
どうせ撮るなら一緒に絵に入ればよかったのに、と
思いながら 蒼太はぼんやりと過去に思いをはせていた
気付けば過去を振り返っている
気付けば過ぎ去っていった人たちのことを考えている
自分のしてきたことの結果を、考えている
「ゼロは旅行は好きか?
 身体がよくなったら、一緒にでかけないか?」
「はい」
にこ、と
笑った蒼太にシモンも満足気に笑った
「君をビデオに撮ろう
 こうしていつかまた思い出せるように」
シモンは立ち上がって、ベッドの脇にある棚からビデオカメラを出してきた
ビデオで映像を残して、時間が経ってから見て、その時のことを思い出すのだろうか
頭で記憶できないから こういう媒体を使うのか
忘れてしまうものなんて、はじめからたいして重要でもないのに
わざわざ残しておかなくても、本当に忘れがたいものはいつまでも心に残っている
頭から離れない
気付けば考えてしまっているように、この身に黒い靄のようにまとわりついている
「ほら、ゼロ、こっちを向いて」
「・・・僕はそういうのは苦手です」
苦笑してみせた
「1日遅れたけど 今日はオレたちが出会った記念だから」
「はい・・・」
向けられるカメラに、また苦笑した
綺麗な景色が好きで、こんな風に無垢に笑ってるあの少年みたいな顔はできない
これが仕事なら いくらでも演じるけれど
そうじゃない今は、ただ鳥羽を待つだけの空いた時間
人間関係に波風をたてるのが面倒で ただ従っているだけの相手
身体は未だ本調子ではなく、睡眠は足りてない
悪夢の余韻は 身の奥にくすぶっていて、意識は気をぬけば過去へと飛んでいく
こんな人間を映して残してどうするのだろう、と
考えてバカらしくなった
こんな人間を構って、彼に何の得があるのだろう

あなたがゼロと親し気に呼ぶこの名は、今までに一体何人殺したと思う?
ゼロという名はこの暗い世界を歩く名だ
世界を求めて手を伸ばした、幼い思考の甘い子供だった自分が、つけた名だ
好奇心に勝てず、知りたくて、欲しくて、足を踏み込んで
今その世界でどうしようもなく、身動きできず呼吸もできず、
苦しい、苦しいと泣いている、道化みたいな男の名だ

「彼、とても可愛いですね」
未だ、部屋にはビデオから流れる笑い声が響いている
景色は海に変わった
どの景色を見ても、思い出す仕事があった
思い出す顔があった
「よく笑ってる、とても、楽しかったんでしょうね」
「とてもいい子だった」
こと、と
テーブルの上にビデオカメラを置いて シモンは笑った
蒼太の側にやってきて、その身体を抱き締める
驚きはしなかった
心は冷めている
「とても可愛くて、素直で、天使のようで、オレにはなくてはならない存在だった」
この押しの強さ、マイペースな性格
異常なまでのビデオの数、写真の数
あらゆるものから情報を読み取れ、と鳥羽に教えられている
嫌でも気付く
わかってしまう
隠されたものを見つける訓練をしているんだから
人の宝を暴いて奪うようなことを、してきたのだから
こんな見え見えだったら、一発だ
彼はこの弟だという少年を愛していて、今もその影を追っていて、
蒼太の何かを最愛の天使と重ねているのだ
だからこうやって構ってくるし、ビデオカメラも持ち出してくる
感情が昂って、抱き締める
そして、死んでしまった弟を想いながら こんなに汚れた似ても似つかない人間に愛を囁いている

そのまま、床に押し倒され 蒼太は揺れる目でシモンを見つめた
彼の目はグラグラしている
たったあれだけのワインで酔っているのか
それとも、ビデオのせいで最愛の弟を思い出して、心の自制がきかなくなっているのか
「シモン・・・?」
「だまって、ゼロ」
くちづけられた、言葉をさえぎるように
呼吸できないくらい強く
(・・・みかけによらず・・・ほんと強引・・・)
どくん、と
からめられた指先がしびれるような感覚があった
あまり気分が乗らない
こうなってしまったからには仕方がないけれど
もともと、男との性行為はあまり好きじゃない
仕事でなら、いくらでもする
鳥羽が相手なら、たまらなくて求めるけれど
(それ以外はいらない)
見つめていたら、眼帯の上にキスされた
目を閉じる
こういう風に行為に乗るから 結局最後までやるはめになるのだろうけれど
ここでいちいち断ったり拒否したりするのは面倒だった
何時間かで終るなら、大人しく受けて 好きにさせたほうが楽だと思ってしまう
「ゼロ、君の雰囲気はオレを惑わせる」
閉じたほうのまぶたにも、キスがおりてきた
「笑っているくせに、どこか暗い君の目は何を見てる?
 その傷だらけの身体は誰にやられた?
 君は不思議だ、
 そういうものは、人の心を魅きつける」
出会った時、悪漢にやられた首の傷を、シモンの舌が舐め上げた
ぞく、とする
身体は感じる
心は何も動かないけれど
「こういうことにも、慣れてるように見える」
返事はしなかった
ただ、黙ってシモンを見つめ、ただ黙って行為を待った
グラグラした彼の目の奥に 自分の姿が映っている
滑稽だと思った
男が男を求めて、こんな風に身体を合わせて
愛みたいなものを囁いて、喘いで、やがて果てるのだから

シモンは蒼太を丁寧に扱ったし、蒼太は彼の求めるよう両手を彼の背に回した
繋げた部分は熱を持ち、水音はいやらしく部屋に響いていた
荒い息遣い、そして喘ぐ声
その向こうで、流しっぱなしになってる映像から、少年の笑い声が聞えた
最愛の人の思い出を収めたビデオを見ながら他の男を抱くなんて、どういう神経をしているんだろうと
ぼんやり考える
身体の熱は上がっている
無理矢理に高められて果てそうになっている
自分の上で喘ぐ男を見つめながら 蒼太は目を閉じた
何も考えなくていいよう、行為に集中しよう
そうすれば今だけは、過去から逃げていられるから

行為の後は、ただただ けだるかった
起き上がる気にならなくて、床に転がったままぼんやりしていたら シモンが抱き上げてベッドへと連れていってくれた
本当は部屋に帰りたかったけれど、
シャワーを浴びて、睡眠薬を飲んで
このどうしようもない身体を少しでも回復させたかったのだけれど
(もぅ・・・いいか・・・)
動く気にならないかった
そのまま目を閉じて 眠っているフリをする
やがて、蒼太の髪を撫でていた手が止まり 頬にキスが降り
部屋の灯りが消されて 物音は何も聞こえなくなった
暗闇に、ひとりきりだと感じた
同じ1人なら、自分の意志で世界を歩き、
自由に生きているあのノラ猫の方が よほどよほど、幸せだろうか

次の日、蒼太のPDAに連絡が入った
組織から 簡単な仕事の依頼だった
(そうだ・・・仕事をしてればいいんだ・・・)
マシンを使っての情報収集と、膨大な資料のまとめ
ここにいながらできる仕事だが、それなりの知識が必要で 組織が蒼太にやってほしいと回してきたものだった
「鳥羽さんが戻るまで、暇なんです
 いくらでも、やりますよ」
そう返信をして、作業のためのパソコンを買いに町に出た
PDAじゃ追い付かないだろうから、ノートパソコンでも買おう、と
適当に物色して 最新の一番軽くて薄いのを買った
少しだけ気が晴れる
あのまま何もやることがない日々が続いていたら、本当に腐ってしまったかもしれない
こんな仕事でも、何かやっていれば気はまぎれる
時間はあっといいう間に過ぎていくだろう
本当は医者から 目をあまり使うなと言われていたけれど、構っていられなかった
精神的に辛いより、目が痛む方が楽だと思う

「ニャーア・・・」

テーブルの上にパソコンを置いて作業をする蒼太の足下に、一匹の猫がすりよってきた
可愛い声で鳴いたのに、蒼太はわずかに笑って冷蔵庫からミルクを取り出す
「今夜は来ないかと思ったよ、ねこちゃん」
気紛れなノラ猫は 毎日は来ない
窓はこの猫のために開けっぱなしにしているのに、昨日は一度も姿を見せなかった
一日中 蒼太の部屋で寝ていることもあるのに、と
思いながら どこか待っている自分がいる
「一緒にお風呂に入らない?」
丁度 仕事が一段落ついたから、と
話し掛けた蒼太に、猫はニャアと鳴いた
自分に似ていると思ったから、こんなにも気になるのか
それでいて、自分とは違う生き方をしているから 気になるのか
蒼太は猫を抱き上げて シャワールームへと向かった
仕事のせいで、少しだけ気分が浮上している
もっと早く これに気付けば良かったと そう思った
これなら、鳥羽を待つ一週間も あっという間に過ぎていくかもしれない

相変わらず、睡眠薬なしでは眠れなくて
かといって睡眠薬の見せる悪夢にも いいかげんうんざりして
蒼太は仕事があるのをいいことに、また睡眠を取らずに過ごしていた
シモンとは、あの日以来会っていない
蒼太自身がほとんど部屋から出ないから、当然か
彼も、気まずいのか部屋に来なかったし、その状況は蒼太にとってはありがたかった
猫がたまに来てくれるから寂しくなかったし、
仕事のことを考えていればよかったから、今は気がまだ楽だった
自分も、鳥羽みたいな仕人間の素質があるんだな、と思いつつ 今夜もやってきた猫にミルクとエサをやって 蒼太はその背中をなでた
洗っても、毛つやはよくならない
汚れは落ちたけど、やはりもう年だし
痛んだものは そう簡単には戻らないのだろう
(ほんと・・・僕の髪みたい)
痛みすぎ、とアゲハが言う髪
色を変えすぎだろう、と組織の皆が言う髪
鳥羽の好みに合わせてみたり、鳥羽の気紛れで変えてみたり、仕事で演じる人間に相応しいよう変えてみたり
無理をさせてきたから、痛んで当然で
別に女の子じゃないから、髪が痛むくらいどうってことないのだけれど
(もうちょっと気を使った方がいいのかなぁ・・・)
この猫を見ているとそう思う
今さら、いくら気を使っても 鳥羽の好むキラキラのブロンドにはなり得ないのだけれど
「ニャア」
ミルクを飲み終って、猫は一声鳴くと 開けた窓から出ていった
「なんだ・・・つれないなぁ・・・」
もう行っちゃうの、と
蒼太は溜め息をつく
あっという間の息抜きタイムだったな、と
思いながら またパソコンに向かった
この仕事は膨大な量があったけれど、寝ずに三日三晩やっているからそろそろ終る
半分がハッキングで、もう半分がその情報の翻訳
外国語の難解な文字は 鳥羽が教えてくれた4番目の言語だった
これを習得するのも大変だったな、と思いながら 鳥羽のことを考えている
そろそろ1週間がたつ
早く会いたくて、
早くここから出ていきたくて、
はやる気持ちを必死におさえつけていた
時間が倍の速度で進めばいいのに
そうしたら、こんな風に進まない時計を見て 身が灼けるような思いをしなくてもすむのに

それから1度だけ、蒼太はシモンに連れていってもらったマーケットに買い物に行き、猫のミルクを買って、自分の水とパンを適当に買った
ついでに病院に行き、目の治療を受ける
身体の包帯はそろそろ取ってもいいと言われて、
それから 眠れないようなら睡眠薬をまた出すからと言われた
あれは嫌な夢を見るからあまり使いたくない
倒れるほどに消耗したときには、仕方なく使って無理矢理に身体を休めるけれど、今は必要なかった
もうすぐ鳥羽も戻ってくるだろうし、
そうなったら、次の仕事のことで頭がいっぱいになって クタクタに疲れて、
眠ることもできると思う
「組織からの仕事はできればしないでください
 できるだけ目を使わないようにと、言ったはずです」
「はい・・・、すみません」
苦笑して、蒼太は席を立った
暇つぶしみたいな仕事は昨日終った
ある男の素行調査みたいなものと、何かの遺跡に関する情報のハッキング
そして難解な外国語で書かれたその情報の翻訳
3日かかったけど、身の危険もなければスリルもなかった
遺跡なんてものには今まで無縁だったから、それが少しだけ興味深かったけれど
「鳥羽さんが、そろそろ戻るんでしたね」
「はい」
「だったら薬を多目に出しておきましょうか
 戻ればすぐに、出るのでしょう?」
「そうですね・・・鳥羽さん次第ですが」
蒼太はすぐにでもでかけていきたかったが、戻ってきた鳥羽が休むと言うかもしれないし、
あの気まぐれは蒼太には読めないから 本当はどうなるかわからなかったけど
「無理をしないでください」
「はい」
心配気な医者に礼を言って、蒼太は大量の薬を持って医者の部屋を出た
もうすぐ鳥羽に会えると思うと胸が騒ぐ
それは切ないような痛みをもたらすけれど、一人で待ってる寂しさより ずっとずっとましなものだ

だが、それから2日経っても3日経っても、鳥羽は姿を見せなかった
だんだんと不安になっていく
今日で10日目
いくら何でも遅すぎるだろう、と
いてもたってもいられなくなった所に、部屋のドアがノックされた
シモンかと思ってドアを開けると、見知った顔が立っている
前回の仕事の時の 協力者の男だった
蒼太と鳥羽を現場まで送ったり、鳥羽が必要だと言った衣類や文献をそろえた男
「ゼロさん、鳥羽さんは戻っていますか・・・?」
部屋に入るなりそう聞いてきた男の言葉に、蒼太はゾクと背中が冷たくなるのを感じた
何を言ってる
鳥羽は あの場に残って仕事の後始末をした後 この男の車で飛行場まで行くことになっていた
何日の便でこの町へ来るのか、とか
誰よりもこの男が知っているはずなのに
「戻ってません」
聞かれたことを明確に、答えた
どくどく、と心臓が鳴る
「鳥羽さんと連絡が取れないんです
 約束の場所に現れなくて、私はその後もずっと待っていたんですが」
蒼白になる相手の顔を見ながら それはいつのことだと考えた
予定の時間に来れないのは何かハプニングがあったからだ
この仕事は全てが計算通りにゆくわけじゃない
鳥羽は、どんな状況にも対応できるように かなりの数の「別の手」を用意するタイプだったが、それでも鳥羽の想定を越える事態も起こるだろう
組織の協力者達は、蒼太達のように自分で考えて動くことができない
だから、その場所で待てと言われたら 相手が来るまでずっと待つことになっている
新しい連絡や命令が入るまで、その場で待機することになっている
「連絡を取ろうにも取れなくて、私は3日間待っていましたが鳥羽さんは来ませんでした」
そう報告した男の言葉に怒りのようなものがふつふつと沸いた
「今、現場には誰がいるんですか?
 たった3日ならありえる遅れです
 あなたは鳥羽さんの指示通り、こんなところにいないで約束の場所に待機してるべきだ」
声が荒くなった
なぜ、わざわざこんな飛行機で何時間もかかる町までやってきて、蒼太にこんな話をしているのか
組織に連絡を取って報告すればそれでいい
そうすれば、この話は蒼太にも伝わるはずだ
職務を放棄して、ここへやってきた意味がわからない
彼は組織の協力者としての経験が浅く、こういうハプニングに慣れていないのかもしれないけれど
そんな言い訳は、この組織では許されない
「今は誰も・・・」
「あなたは自分の判断でその場を離れてこんなところまで来たんですか
 あなたがいなくなった後 鳥羽さんがその場所に現れたら、と考えませんでしたか
 3日も遅れているということは何かあったには違いないでしょう
 そんな状態で、協力者のあなたがいなければ、あの人が困ると思わなかったんですか」
血が、逆流しそうだった
鳥羽の仕事は完璧だ
その鳥羽がこんなにも大幅に遅れている
もしかしたら想定外のことに怪我をして動けないでいるのかもしれない、とか
拘束されているのかもしれないとか
色々なことが頭をよぎった
そして、鳥羽のことだから
それでも何とか約束の場所にたどり着いているかもしれない
ターゲットとなった研究所は 不便な山奥にあった
車がなければ町には出られない
協力者が鳥羽を迎えなければ、鳥羽は外界まで下りるための手段を そこからまた探さなければならないのに
「信じられない・・・あなたは組織にふさわしくないっ」
感情を抑えようとしてもできなかった
部屋の隅にいた猫が、驚いたように立ち上がって窓から外に出ていった
男を罵る言葉はいくらでも言えそうだったけれど、そんなことをしている暇はない
こうしている間にも、鳥羽がどうにかなっているかもしれない
「くそ・・・っ」
机の上のPDAを引っつかんだ
必要なものは、これと携帯、それからパスポートとカード
「ゼロさん、待ってくださいっ」
ジャケットを羽織って、ポケットにパスポートを突っ込んだ蒼太の腕を 協力者の男が掴んだ
「離してください」
「どこに行く気ですか?!」
「あなたが職場を放棄した場所ですっ」
腕を振って、その手を振りほどいた
だめだ、冷静にならないと
そう思うのに、声が荒くなる
空港に向かいながら組織と連絡を取って、報告をしなければ
飛行機のチケットの手配も、
それから、鳥羽が今どんな状況で何が起きているのかを知らなくては
想像して、あらゆる仮説を立てて
自分はどうしたらいいのか、考えなくては

そこまで考えてドアを開けたら、そこにシモンが立っていた
思わずぶつかりかけて、慌てて足を止める
なぜ、こんなところにいるのか
いつからいるのか
中での話を、聞いていたのか
「何をしてるんですか?」
自然、責めるような口調になった
冷静に話なんかしていられない
睨みつけるように見上げたら 彼は複雑な顔で蒼太と 蒼太の後ろでオロオロしている男を見た
「言い争う声が聞えたから心配になったんだ」
「立ち聞きは、行儀がいいとは言えませんよ」
今は、こんなのに構っている暇はない
一刻も早く 行かなければ
知らなくては、考えなくては
「どうしたんだ、ゼロ
 それに、その男は」
シモンが、落ち着かせようと蒼太の肩を掴んだ
「ゼロさん、すみません、まず先に会社に連絡を」
組織では、一般人の前では組織を会社と呼び変えて話をする
緊急時には 人のいない場所など探していられないから、と
隠語も色々とある
男の言葉に、蒼太はギッと相手を睨みつけた
隠語を使う頭があるなら、なぜここに来る前に代理を立てなかった
中途半端な彼のせいで、鳥羽に何かあったらどうするつもりだと
イライラした気持ちで、吐きそうになる
「シモン、離してください」
そして、この目の前の男も
全く関係ないくせに、こうやって邪魔をする
強い腕は よりしっかりと蒼太を捕まえて身動きすらできない
「離してください、僕は急いでるんです」
「どこに行く気だ、もう夜も遅い」
「今ならまだ最終のフライトに間に合うんです
 お願いですから、離して」
言ってもわからないだろう
蒼太の生きている世界のことなんか
蒼太の誰より何より大切な人が、
この身を支配している人が、
ここに戻ってこない この不安
待ち続けて、気を紛らわせて、眠れないのに悩まされながら、それでもなんとか耐えた1週間以上もの時間
なのに鳥羽が、戻らないなんて
「フライトって・・・」
シモンの目が協力者の男を見た
説明を求めるような顔をしている
関係ないくせに
ただの部外者のくせに どうして首を突っ込んでくるのだ
知ったって、何の得にもならないのに
「あなたには関係ないでしょう」
意識して、声を落とした
冷静にならなければ
血が上っていては、大事なことを見落としてしまうかもしれない
「君を心配してるんだ、君は怪我人だし この人だって君を止めてるじゃないか」
「ゼロさん、すみません、今から代理を手配しますから」
「そうしてください、だけど僕は行きます」
送り迎えの代理を用意しても、所詮それはただの協力者だ
鳥羽の思うようには動けない
鳥羽の行動を予測して、それを助ける動きはできはしない
鳥羽のパートナーである自分にしか、できないことがあるはずだ
そのために、組織の人間は二人一組で動くのだから
「ゼロ、ワガママを言うのはやめろ
 大人を困らせるものじゃない」
携帯を取り出して電話をはじめた男を見やって、シモンが言った
咎めるような口調
確かに自分よりも、シモンとこの男は大分年上だけど
ワガママ?
大人を困らせるな?
なんてこの状況にそぐわない言葉
この世界は年齢じゃない、実力だ
蒼太の上には、鳥羽しか立ちえない
他のものは、ただの他人で蒼太に何の影響も与えない
「シモン、離してくれないと僕はあなたを傷つけてしまいます」
彼は格闘技をやっていて強かったけれど、この指輪に仕込んである毒を身体に刷り込めば一発で死ぬだろう
触れただけで命を奪う猛毒
どうか、こんなものを使わせないで欲しい
関係ないのだから、引っ込んでいてほしい
関わらないでほしい
放っておいてほしい
「ダメだ、ゼロ
 君は気が動転してる、そんな状態では離せない
 それに外は危ないと知ってるだろう
 オレは君が心配なんだ」
それは身体を合わせた仲だからか
それとも、蒼太が最愛の弟に似ているからか
外が危ないなんて、今鳥羽がいる状況とは比べ物にならないのに
やろうと思えば あんな悪漢の3人や4人や5人、いつでもやれる
毒はいつも持ってるし、スタンガンだってある
携帯には麻酔針が仕込んである
護身術だって、いくらかはできるのだ
こんな町の夜ごとき、組織の人間には何でもない
こんなものが危険だなんて言ったら笑われる
「僕は落ち着いています、だから離して」
そ、と 自分を押さえつけているシモンの手に 指輪の手を添えた
これ以上グダグダ言うなら、殺してしまおうと思った
こんなときに 手段なんて選んでられない
鳥羽以外に大切なものなどない
「ゼロさん・・・っ」
やろう、と思った
だが切迫した声がそれを止めた
協力者の男が、自分の国の言葉で何か喚いている
聞き取りにくい言葉
動揺して、組織の共通語である英語で話せなくなっているのか
机の上のパソコンを指さして喚く言葉を注意深く聞いたら 組織のネットワークがどうのとか、サイトがどうのとか言っていた
片手に持っている携帯で、さっきまで組織と連絡を取っていたはずだ
組織から何か情報が聞けたのだろうか
「落ち着いて、どこのサイトですか」
シモンの腕を押しのけて、彼の国の言葉で話した
一度呼吸をして、男が言う
「組織のニュースサイトと言えばわかると言ってました」
「ニュースサイト?」
世界中の情報を流しているニュースサイトが 組織にはたしかにある
その国々の情勢から政策、気候なんかに至るまで 仕事で行く先のことを調べるのに皆が使うツールだ
大きな事件は網羅されている
今さら、そんなものを見て何になるのかと思ったが
(・・・まさか)
ぞく、と
アクセスしながら、背中が寒くなった
あの研究所で何かあったのだろうか
このサイトのニュースに載るくらい、大きな事件があったのか

「・・・・・っ」

研究所のあった国名をクリックして 表示された画面に蒼太は一瞬呼吸を忘れた
燃え上がる炎
蒼太の知っているものとは思えないほどに 焼け崩れた建物が載っていた
「何・・・これ・・・」
記事に目を走らせる
何月、何日、何時、爆発が起きて研究所の人間が何人死んだ
生存者の確認は未だできていない
「そんな・・・・・っ」
震える声で、男が言った
今にも泣き出しそうな声
泣きたいのはこっちだ、と 頭のどこかで考えた
この大爆発
鳥羽は、この時まだ 中にいたのだろうか
約束の日に脱出できず、この爆発に巻き込まれたのだろうか
ザッ、と血が引く気がした
日付は今日、時間はついさっき、1時間ほど前だった
言葉もない
そして震えた
逃げ遅れたなんてヘマを鳥羽がするはずないと思いつつ とっさには冷静になれなかった
沈黙が その場を支配する

「あの事故に知り合いが巻き込まれたのか?」
シモンは、どさくさに紛れて部屋へ入り込んだまま、出ていく素振りもみせずに蒼太を心配そうに伺っ

協力者の男は、蒼太の指示で明日一番のフライトを手配に行った
結局、今から行っても最終のフライトに間に合わない時間になってしまったから、蒼太は今夜はこの部屋に留まることを選んだ
今すぐ飛んでいきたい気持ちを抑えて、考えている
鳥羽はどうなったのか
自分は何をしたらいいのか
組織へ問い合わせると、向こうもバタバタと鳥羽の行方を調査していた
現地に人間を派遣したところだと聞かされる
もし無事なら、事故があった時間からして そろそろ鳥羽から連絡が入るかもしれない
そうでなくても、病院か、その国の組織の拠点か、他のどこかかに現れるかもしれない
それらを見張る、と
組織は言っていた
その対応に、少しだけ安心する
その全ての報告は今、鳥羽のパートナーである蒼太のPDAに転送されてきていた
「僕の友人が、事故に巻き込まれたようなんです」
ベッドに座っているシモンに、蒼太は言うと苦笑した
いつまでも ここにいられると邪魔だ
彼は蒼太を心配しているのだと言い、その強引さで居座っている
やんわりと帰っていただくには何と言ったらいいのか、と
ベッドまで行って、シモンの手を取った
「見苦しいところを見せてしまってすみません
 動揺してしまったんです
 でも、今はもう大丈夫です」
彼の目を見てそう言った
大丈夫だから帰ってくれ、と言いたい
一人にしてほしい
考えることが山ほどあるのだから
「気持ちはよくわかるよ、ゼロ
 だけど落ち着いてよかった
 今夜は眠るといい
 明日にはいい知らせが届いてる」
シモンが笑う
何も知らない男の、無責任な言葉
「はい、ありがとうございます」
「よく眠れるよう、何か煎れてやろう」
にこり、
立ち上がってシモンはキッチンへ歩いていった
気がすむまで蒼太の相手をしたら帰ってくれるだろうか
開けっ放しの窓を睨みつけるように見つめて 蒼太はため息をついた

「君の冷蔵庫にはろくなものがないな」
5分ほどしてシモンがもってきたのはホットミルクだった
そういえば、猫のためのミルクと パンくらいしか置いてない
蒼太はここにきてから、ほとんど食事をしていなかったから
「さぁ、これを飲んで
 身体を温めたらもっと落ち着く」
肩を抱かれて、ベッドに座らされた
マグカップの中の白い液体
一口飲むと、やっぱり変な味がした
料理はさほど下手ではないのに、彼は飲み物を入れると必ずこんな変な味になっている
砂糖と塩を間違えているのだろうか、と
ぼんやり考えながら 蒼太はカップの中のミルクを飲み干した

それからベッドに入って シモンが部屋を出ていくのを見送った蒼太は、そのまま鳥羽のことを考えていた
鳥羽が下手をするはずない
だから死んでいるはずはない
問題はどこにいるのかだ
連絡が取れない場所にいるのか
それとも、あえて連絡をしてこないのか
(・・・探知機を埋めてあれば一発なのに・・・)
身体に探知機を埋め込んでいれば、こういう時とても役に立つ
今どこにいるのかを追跡できれば こんなにも不安になることもない
もっとも鳥羽は、そんな始終見張られているものは嫌いだと言っていたけれど
(鳥羽さん・・・)
祈る思いで天井を見つめた
ムカムカ、と
吐きそうなのは、不安のせいか
こんな時に眠れるはずもなく、疲労に似たものが ずっしりと身体にたまるのを感じた
早く朝になればいいのに、と
何度も何度もそう思った

早朝、
外から猫のニャーニャーいう声が聞えていた
朝一番のフライトに間に合うよう、そろそろ出ようと思っていた時間
シモンに見つからないように、と
そんなことを考えていた時だったから、最初はその猫の声に気づかなかった
パスポート、PDA、携帯、カード
いつもの4点セット
出る前に一度、組織と連絡を取っておこうと 携帯を手にした
「ニャー」
ひときわ高い猫の声が響いていく
なんとなく、窓際に寄りながら短縮の番号を押した
「おお、久しぶりだな、ニャー子」
耳元のコール音、そして窓の外の声
どくん、と
瞬間 心臓が鳴った
震える
窓から身を乗り出すと、真下の道に座っている猫が見えた
そして、その猫が見ている方
そっちから誰かが歩いてくる
「あんまりニャーニャー鳴くなよ、響くんだぞ、猫の声ってのは」
静かな早朝の空気に、その声こそ響いて聞えた
「鳥羽さん・・・」
耳元のコールは4回目
カチャ、と誰かが出た音がした
だがその時には、蒼太は部屋を駆け出していた
鳥羽が戻ってきた
あの余裕のある声
カツカツ、という規則正しい足音
瞬間、何も考えられなくなった

「鳥羽さん・・・っ」
「おー、ゼロ、悪かったな、待たせて」
外は少し寒かった
こんな早朝には誰もいない
猫だけが、鳥羽の足元で鳴いている
「鳥羽さんっ」
どうしようもなくて、
止められなくて、
蒼太は鳥羽に手を伸ばした
駆け出してきた勢いのまま、その胸に飛び込む
「おいっ・・・、こら、お前は、子供じゃないんだぞ」
とす、と
勢い余っている蒼太を抱きとめて、鳥羽は言うと苦笑した
「いい大人が なんだそのザマは」
泣くな、と
笑う声
それから、くしゃ、と髪をなでられた
涙が止まらない
大声を上げて泣き喚いてしまいそうになる
冷静でいるつもりだったけど、こんなにも気が昂ぶっていたのに自分でも驚いた
必死に声を上げないようにしたけれど、
それでも、涙はとまらなくて
震えながら 蒼太はしばらく鳥羽にしがみ付いていた

しばらくすると あの煙草の香りが、流れてきた
片手で蒼太を抱き、髪をなでながら、
片手で煙草に火をつけた鳥羽は、ぷかぷかと煙を吐き出した
「鳥羽さん・・・怪我ないんですか?」
その香りに落ち着いて、
蒼太はひく、と
乱れた呼吸を整えるように深呼吸して そう言った
ようやく鳥羽から離れて 涙を拭く
あんなに心配したのに
あんなに不安になったのに
当の本人は平気そうに いつも通り立っている
「怪我はない」
「あの爆発でよく・・・無事でしたね」
声はまだ、震えていた
落ち着け、と自分に言い聞かせる
あまりに動揺して、抱きついてしまった
それを鳥羽は不快に思わなかったようだから良かったものの
下手をすれば、彼の機嫌を損ねかねない
ようやく頭が冷静になっていく
「あれはオレがやった
 事態が急変してな、後始末をしてたら内部分裂が始まって 2日でトップがすげ替わってな
 依頼主の喜ばない方向に話が進んだから、阻止したかったんだができなくて 結局つぶすことにした
 何が必要で何か不要か判断できなかったから、研究内容を全部コピーして全部消去した
 それにちょっと時間がかかってな」
言いながら鳥羽は、何かを見ていた
窓の方
何だろう、と
蒼太もそちらを見上げる
開け放たれた窓、3階の、蒼太の部屋の二つ隣
人影はなかったけれど、あそこはシモンの部屋だった
彼が顔を出していたのだろうか
鳥羽が何を見ていたのかは、わからなかった
「懐かしいな、ここ
 ニャー子も健在だしな」
猫は相変わらず 鳥羽の足元にうずくまっている
その様子に 胸がぎゅっとなった
「それ・・・鳥羽さんの猫ですか?」
窓から目を離して そう聞いてみる
この猫はとても鳥羽を好きみたいだった
「オレは動物は飼わないって前に言わなかったか?」
「・・・聞きました」
「じゃあ、違うだろ」
「でも鳥羽さんに懐いてます」
「ニャー子は誰にでもなつくんだよ
 お前みたいにな」
鳥羽がしゃがみこんで、猫の毛を撫でた
金みたいな茶色、痛んだ毛並み
見ていると、やっぱり髪をああいう色にしたいなと思った
撫でられて気持ち良さそうな猫がうらやましいと思う
誰にでもなつく、なんて言うけれど
そんなことは断じてないのに
自分がこんなにも求めるのは、鳥羽だけなのに
「さて、行くか」
しばらく猫を撫でた後 鳥羽は立ち上がって言った
早朝、その声はよく響いた
「はいっ」
胸が騒ぐ
痛みはない
待っていた時間はとても辛かった
鳥羽の隣にいられるなら、何もいらない
他には何も、いらない

「待て、ゼロっ」

晴れやかな気持ちの蒼太に、声をかけたのはシモンだった
アパートから出てくる、蒼白な顔をして
「お世話になりました」
そんなシモンに、蒼太は頭を下げて挨拶をした
もう二度と会うことはないだろう
一度 身体を合わせたきりの人
彼はビデオを見て蒼太を思い出すかもしれないが、蒼太はきっと彼のことなど思い出さない
愛を囁かれても、この心は動かない
「行く気か? こんなにも急に」
二人の会話を聞いていたのだろうか
だが蒼太には、彼がどこまで聞いて、何を考えているのかなんて興味がなかった
どうでもいい
そんなことは、どうでもいい
「行きます」
微笑した
ここにいる理由はもうない
鳥羽が行くと言ったら、いつでも、どこでも、どこまでも行く
「何も・・・持ってないじゃないか
 部屋にあるパソコンは? オレがやった写真は? 服は?
 バッグすら持たずに、どこに行くっていうんだっ」
シモンの言葉は切羽詰まっていた
鳥羽が、もう一本 煙草に火をつける
あの香りが、
大好きな香りが漂ってきた
「そんなの、いりません」
パソコンも、服も、薬も、バッグに入ってる本やスタンガンや その他の何もかも
いくらでも買える
代わりがきく
パスポートとPDAと携帯とカード
これだけあれば充分なのだ
それはいつも持っているから、鳥羽が来いと言ったとき 蒼太はいつでもついていける
「帰ってくるのか? ゼロ・・・っ
 オレは本当に君のことを」
愛してるとでも言うつもりか
聞く前に、蒼太は苦笑してシモンの言葉をさえぎった
煙草1本吸うくらいの時間なら、鳥羽は待ってくれるだろうけれど
彼は気まぐれだ
いつ、話が長いからと置いていかれるかわからない
そんなに言ってくれる奴がいるなら残ってやれば?と
言い出しかねない
そして何より、
あれだけ待ったのだから、もう一刻も早く 鳥羽について行きたかった
自分が これ以上は待てないと、そう思う
「ここは僕の帰る場所じゃないんです
 だから、もう戻らないと思います」
この先 仕事でこの町に来ることがあり、このアパートを拠点とすることがあったとしても
それはこの男のところに戻るというわけではない
彼の世界と自分のいる世界は、繋がっていない
「さよなら」
立ち尽くすシモンに笑いかけた
そして、歩き出した鳥羽の背中を追いかけた
やがて並んで歩調を合わせる
漂う煙草の香りがとても、心地よかった


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