勧誘 (葉月×主2)


今日は珪の写真集の発売の日
なのに珪は 一昨日から良くなかった体調が悪化して喉が痛い、頭が痛いの二重苦
声もガラガラ掠れたみたいになって、喋ると痛いから昨日からあまり喋らないようにしている
そんな不調の中、学校で何人かの女の子にサインをせがまれて、対応しているところを先生に叱られた
廊下でキャーキャー煩いのは自分のせいじゃないのに、とばっちり
その後、色々と面倒になって学校をさぼってフラフラしていたら、カフェのところで知らない女に声をかけられた
雰囲気で、雑誌の記者かなと思ったけど 彼女がありがちな図々しいインタビューより先に写真集を差し出してきて、ファンなんですなんて言うから、逃げそびれてしまった
そもそも体調がよくなくて走る気にもならない
それで、仕方なくサインすると彼女は舞い上がったみたいに顔を真っ赤にさせて喜んで帰っていった
その後姿を見ながら、自分は少しだけ変わったと思う
(サインって、難しい・・・)
前はサインを頼まれてもしたことがなかった
今でも本当は、サインって何だ、面倒くさいし、と思う
でも、夏休みにあの劇場で 舞台の後たくさんのファンの相手をしている役者達やの姿を見て 
少しだけ自分の中の何かが変わった気がしたのだ
一目見るだけのために、遠い劇場までわざわざ差し入れを持ってくるあのサラリーマンと話すうちに、
手紙を渡すためだけに何時間も待っているファンたちを見ているうちに
ほんの少し、誰かのファンである人の気持ちを理解した
その対象が笑ってくれたり、話してくれたり、サインをしてくれたりするほんのわずかな時間でも
ファンたちには忘れられない時間になったり、嫌なことを全部忘れてしまえるほどに嬉しい記憶になったりするんだと知ったから
だから、珪はそれからなんとなく、今までみたいにファンを無視したりはできなくなった
もしその時 時間があって、自分が不機嫌じゃなかったら 求められることをしてみてもいいと思った
サインとか、握手とか
だから学校でも、さっきのカフェのところでも サインをした
事務所が考えたサインはなんだか難しくて、し慣れないからいびつだけれど
(アイドル扱いは嫌だけど・・・このくらいなら許容範囲・・・)
それで、あんな風に喜んでくれるなら、その少しの時間を割くことは、無駄じゃないような気がした
だって、あの劇場でクタクタに疲れている仕事の後、ファンの一人一人に丁寧にお礼を言っていたのだ
来てくれてありがとうございます
この間も手紙をくれた方ですよね
差し入れ、とても嬉しかったです
また、来てくださいね
私も、がんばりますから

(俺も・・・ファンになれたらな・・・)
の笑顔は、けして自分には向けられなかったけど、あの場所では笑っていた
自分の前ではいつも怯えてるけど
ファンには笑いかけてくれる
だったら、初恋なんか知らないままに一人のファンとして出会えたらよかったと たまに思う
今日も、朝から散々避けられたし、は自分の写真集なんかには興味もないのだろうけれど
(つまらない)
何か面白いことがないだろうかと思った
サボらなければ良かったかもしれない
教室にいれば、授業中はの後姿を見ていられるんだし、歩き回ったせいで 何だか余計にダルくなった気がしないでもない

「そこのお兄さん」

午後の公園はまだ暑くて、人はあまりいなかった
木陰のベンチで寝ようかと、歩いていた足が止まる
「そこの制服のお兄さん」
呼ぶ声がする
他に人がいないから、自分が呼ばれたのかと思って振り返った
その先には、スーツの上着を暑そうに脱いだ男が一人立っていた
(誰・・・)
知り合いだろうか
自分は人の顔をおぼえるのが得意じゃない
仕事で会った人も、クラスメイトも、よく覚えていない
だから、返事はしなかった
それに喉が痛かったし
「学生さん?
 こんな時間に何フラフラしてんの?」
男は馴れ馴れしかったけど、嫌な感じはしなかった
それより不思議な雰囲気を出している
透明っぽい雰囲気、生活感がまるでない感じ
「ビジュアルが理想
 君さ、演劇とか芝居とかに興味ない?」

以前の自分なら、興味ないと言って去ったと思う
でも今は、とても興味があった
ただ、目の前の男の得体が知れずに返事に迷う
それを、読み取ったのか彼は笑って近づいてきた
「芝居の役者を探してるんだけど、なかなかコレってのが見つからなくて
 とうとう素人さんまで範囲を広げて探していたところで、君を見つけた」
明るい声
一方的な勧誘
でも、悪い気はしなかった
がいる世界のことを知りたいと、漠然と思っていたところだった
あの身近に感じたの存在
今は幻だったのかもしれないとすら思う 夏休みの出来事
どういう世界なのだろう
演じるって、どういうものだろう
未だに自分は、考えないようにしているだけで気にはしている
どちらが本物で、どちらが偽者なのか、なんてことを
どのが本当ので、どのが演技で作られたものなのかということを

「芝居したことないけど」
「構わない、台詞のないチョイ役だから
 だけど存在感のある役だからどうしても美形の役者が欲しかったんだ」
「・・・」
喉が痛かったから、それ以上は喋らなかった
「これからヒマ?」
頷いて返事をする
「じゃあちょっと、雰囲気見てくれないかな?
 本当に君のビジュアルが理想なんだ
 公演はまだまだ先だから、細かい演技とかの指導をする時間はたっぷりあるし」
もう一度、頷いた
彼は、風邪でも引いてるの?と笑って 先に立って歩き出した
その後をついていく
面白いことが何かないかと思ったから、こんな人と出会ったのだろうか
神様はまだ、自分の味方だろうか
だったら、この経験が自分の中でまた何かを変えるか
それとも彼が、へと繋がっているのか

(どっちにしろ、面白そうだ・・・)

珪の心の中は大抵のことがフワフワと宙に浮いたみたいになっていて、
そのくせ、全てに優先順位が決まっている
は、優先
自分が心地よいのも優先
出来る限りやりたいようにやって、苦痛や我慢はしたくない
だけど、無理な場合は結構簡単に妥協もする
だって、「どうしても」というほどに執着するものも少ないから
それで、傍から見たらフラフラしているように見えるのだろう
意味のわからない言動に見えるのだろう
珪の中には明確な、基準があっての行動だけれど
今回のこの出会いも、それに対する自分の行動も だから自分では何ら違和感はないし、無理もしていないのだけれど
「良かった、君がちょっと変わってて
 こんな怪しい人に声かけられてホイホイついてくる人っていないから」
男の言葉に珪は返事をしなかった
大抵の人はそう言う
珪の考えていることがわからないと、
珪は変わっていると
慣れているし、それでどうこうは思わなかった
珪は自分がしたいようにするだけ

「ここが練習場
 月水金が練習日だけど、2.3人は毎日いるかな
 俺がリーダーだから何でもきいて
 とりあえずこれは台本
 今、本読みしてるから見学していって」
少し歩いて着いた先は、古いビルの一室だった
コンクリートに鏡が設置された広い部屋
隅の方にテーブルとイスが並んでいて、そこで何人かが台本を読みあっていた
「夜からは主役中心の稽古になるから、それまでに脇役だけでやってるんだ」
渡された台本を広げて、空いてる椅子に座った
珪にやってほしい役の部分は、珪をここまで連れてきたリーダーが読んだ
恋愛もので、自分はどうやら主役の家の使用人
無口だけど、主役のことをずっと好きだったという設定のようだった
「君の役は台詞はないけど、ヘレンのことを誰よりもずっと愛していた男の役
 無言の演技で、君の役の優しさと切なさが伝わるように演技して欲しい」
聞くだに恥ずかしく、どうやったらそんな優しさと切なさなんて表現できるのかと思った
自分なんかに、本当に演技なんてできるのだろうか
こんなことを、がやっているのかと思うと 信じられなかった
やはりあれは夢幻かと、またそんなことを考える

その日の夜の練習までに、珪は台本を全部覚えた
覚えたところで自分の台詞はないのだけれど、他にすることもなかったし、流れがわかっていないと始まらないだろうと読んでいたらあっという間に覚えてしまった
そもそも、ストーリーがわかりやすいから、内容もわかりやすい
頭にすっと入っていく
夏休みに何度もの舞台を見たせいで、台本に書いてある人物の移動なんかもスムーズに想像できた
「頭いいんだな、君
 若いってのは羨ましいね」
ちゃんも台本覚えるの早いよね、やっぱり若さかな」
ペラと台本をめくる手を止めて顔を上げた珪に、皆が笑った
「ああ、ちゃんって、主役のヘレン役の子のことね」

その台詞が終るか終らないかのあたりで、知った声が聞えた
「おはようございまーす」
ドアの開く音、元気な挨拶の声
やっぱり神様は自分の味方だと思いながら、珪は声の主へ視線をやった
制服を着ている、見慣れた女の子
だけど手を相手役の男に引かれて、目には目隠し
パっと見て、不思議な光景だった
そこにいるのは確実にで、ここは非日常の芝居の稽古場
ドクンと、妙な胸騒ぎがした
唐突に、夏休みに舞台の上で見たあの高い声で歌う死神の姿を思い出した

本当のはどっち?
疑問がまた、姿を現す


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