前夜 (氷×主)


月が傾いている
夜中、氷室はのバーへとやってきた

「あれ? どーした、こんな時間に」
「いや・・・」

店内に、人はほとんどいなくて、
遅くまでやっているこの店も、そろそろ閉まる時間らしい

「明日は卒業式だろ?」
「ああ・・・」

カウンターに座って、ふとの遥か頭上にある窓を見た
星が見えるよう設計された天窓からは、月が見えた
そして、暗い雲も

「あったかくなったな、だいぶ」
「そうだな・・・ 」

たわいもない話をしながら、ぼんやりと氷室はその月を見ていた
空は黒くて、どこまでも暗く
月は白く静かにシンシンとそこにある
風が出てきたのか、先程はかかっていなかった雲が、その白い姿にまとわりつくように流れてきた
春は嫌いじゃないのに、
こんなにも、心が苦しいのは何故か

が、卒業してしまう

溜め息をついた
眠ろうとしても眠れず、
無性にピアノに触れたくなって ここへ来た
声に出せない想いを、吐き出したくて
どうしようもなくて、
ここに来たのだ
想いは熱く、身体の中を焼いている

最後の客が帰ったのを横目で見ながら、氷室はグラスの液体をぐいと飲み干した
途端に、眉を寄せてを見る
「これは・・・・・」
「ああ、レモネードだよ」
「・・・・・?」
甘い味が口の中に広がって、
だが、それは といた時間を思い出させた
レモネード二つ、と
をここへ連れてくる度に注文したっけ
氷室には甘過ぎるそれを、は結構気に入って飲んでいたけれど
「明日、二日酔いなんかで出るの嫌だろ」
今夜はそれしか出さないよ、と
の笑った顔に苦笑した
いつもいつも、こいつは何でもお見通し、とでも言いたげな顔をして笑っている
昔から、ずっとそうだった
にはかなわない
だから、彼の前で無理をする必要がなかった
だから今も、ここにいる

ふ、と暗くなった気がした
見上げると、月が雲に隠れていた
「まるで俺だな」
ひとりごちて、氷室は苦笑する
月を隠す灰色の雲
昔、友人が言ったっけ
月を愛する雲は嫉妬のあまり、恋人の姿を人々の目から隠すんだよ、と
からみつくように、その白い輝きを隠してしまった雲は
ゆっくりと流れて、
まるで、月を抱きしめるようにそこにある
苦笑がもれた
をこんなにも想っている自分がいつもいつも感じていること
全てから、を隠してしまいたい
誰も、を見なければいい
この腕の中に抱いて、
誰にも見えないようにしてしまいたい
を、自分だけのものにしたい

ガタン、と
突然 氷室が席を立った
ピアノの前に立ち、溜め息をつく
これは、間違いではないだろうか
この想いは、にとったら迷惑なだけかもしれない
そして、
自分がどうあがいても、明日が来たらは自分の元から去ってしまう
毎日、当然のように教室のあの窓際の席に座って、こちらを見ていたは、いなくなってしまう
彼女の人生に、氷室という教師は ただ通り過ぎていくだけの存在でしかないかもしれない
だけど、

「・・・・、」

その前に座り、一音弾いた
心が、少しだけ落ち着いた

「君が好きだ・・・」

灰色の雲みたいな自分
白く美しい月を、独占したいと思っている
こんなにも、醜くドロドロとした心で

(あーあ、見てられないね・・・・)
苦笑して、はただ氷室の横顔を見ていた
(辛そうな顔しちゃって・・・)
まったくどこが鉄仮面なんだか、
こいつのどこが、冷血漢なんだか、と
はふ、と息を吐いた
激しいメロディに、心が痛む
こんなにも、
これほどまでに、想っているのか
これは氷室の、心の叫びか

何度も何度も、
氷室は繰り返し弾いた
鍵盤は指の下で跳ね、音は店内に響き渡った
頭の中は、真っ白で
熱いものが、身体の中で行き場を探してうずいている
こんなにも、こんなにも

君を、想っている

「ベートーベンとは、激しいこった」

の声も聞こえない
どうしようもない想いは、弾いても弾いても落ち着きはしない
繰り返し、繰り返し弾きながら、のことだけを想った
たとえ全てを失っても、
全てが崩れてしまっても、

「君に伝えよう・・・」

深く息を吐いて、
氷室は指を止めた
身体が熱い
頭はこんなにも冴えているのに、身体だけが火照っている
自分は雲でいい
そして、それゆえに けしてこのままではいられないのだ
を、この腕に抱いて、全てから奪い去ってしまいたい
手放すなんて、できない

静かに、月はしんしんと
雲はいつまでも、その光を隠し続けている


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