卑怯 (氷×主)


図書室の、物語りの棚の裏で もう30分も本を読みふけっていたは、入り口から入ってきた氷室の声に意識をふと現実に戻した
職員会議でもあったのだろう
いつもの時間より15分ほど遅れたことを、代理でカウンターに入っていた先生に詫び
それから 2.3言葉をかわした後 代理の先生が出ていった気配があった
その後、図書室はまた静かな空間に戻る
貸し出しにきている生徒は 数人で、
静かに本を読んだり 目当てのものを物色したりしている
もまた、手にした本に目を戻した
氷室の教えてくれた物語りの棚には 次々と先が読みたくなるような本がたくさんあった
世界史や地理の本ばかり、ただ時間を潰すためだけに読んでいた頃とは違い、今は楽しんで読書ができる
ただ文字を追って、現実から逃げてるだけの時間じゃない
心踊るような物語りに どんどんと引込まれてしまう
先が気になって本が置けない
借りて帰って読めばいいのに、ついここで開いてしまったから
そのままもう30分も、読みふけってしまっている

こんな時間を過ごすことができるようになるなんて

「先生」
1時間もたった頃、ふと声が聞こえてきた
ここからは見えないカウンターのところ
「どうした」
氷室の声が答える
「これが、先生が以前言っていた楽譜ですよね?」
「ああ、そうだ」
「私、頑張って練習してみようと思うんです」
「そうか、素晴らしい曲ばかりだから きっと君のためになる」
カタ、とわずかな音がした
貸し出しカードを、ボックスから出す音だろうか
気付けば 辺り歩いていた生徒ももういなくて
立ちっぱなしで本を読んでいたの足も そろそろだるくなってきていた
もう皆帰ったのかな、と
はまだ半分ほど残っている本のページを確認して、そっと息を吐いた
自分も、これを借りて帰ろう
家に帰って続きを読もう
そして明日また、この続きを借りに来よう
(本当はここで全部読んでしまって、その続きを借りて帰ろうと思ったんだけど)

思考している間も、氷室と女生徒は会話を続けていた
静かな図書室だから、特に意識しなくても声は聞こえる
もしかしたら 他に人はいないのかもしれない
気配もないし、物音もないから
「先生、私、先生のこと好きです」
柔らかな、会話の流れの中で
突然に言った女生徒に、は一瞬動きを止めた
ほんとうに自然な言葉
落ち着いた声
聞いた方が、戸惑ってしまうくらい 気負いも何もない告白
「え・・・?」
だからか、
と同じように、言われた氷室の方が戸惑った声を上げた
「私、先生のことずっと見ていました
 教室でも、クラブでも、ずっと」
それで、は声の主が誰かを悟った
3年間 自分と同じく氷室学級で、吹奏楽部で、勉強のとてもよくできる子
優しくて、落ち着いていて、しっかりしていて、とても人気のある女の子
(あんな人でも、先生を好きになるんだな・・・)
男子はつきあいたいと言うし、女子は頼りになると慕う
氷室とも、よく話しているのを見た
ファンクラブに入る程ミーハーではなく、節度をわきまえた生徒
きっと、氷室にとっての理想の生徒だろうと そう思う
「君は・・・私の生徒で、私は教師だ」
氷室は、戸惑ったように言葉を繋いだ
「そんなの、関係ありません
 人を好きになるのに、そんな立場なんて関係ありますか?」
また、落ち着いた声
聞くの心も落ち着いていた
嫉妬のような感情は湧かない
ただ少し驚いて、
あんなデキた子でも氷室を好きになるんだったら
自分のような問題児が、散々手をやかせて、それでその優しさに触れて好きになってしまったとしてもおかしくない
そんな風に思った
世界には、色んな氷室に触れて、自分だけの氷室を知って、彼を好きになってしまった女の子がたくさん、たくさんいるんだろう
誰かはファンクラブに入って 彼の写真を集めて喜んで
誰かは喫茶店に通って 偶然会える日を待っていて
誰かはこんな風に、人のいない図書室で告白をする
「君はまだ子供だ
 一時の感情に、私を好きなんだと思い込んでいるだけだ」
困ったような氷室の声
「私はもう子供じゃありません」
「君は高校生だろう」
「先生、そんなの答えになっていません・・・」
最後の言葉は、不安定に揺れた
教師と生徒
子供と大人
高校生と、何?

聞いていたら、心がすっと冷たくなった
氷室はずるい
彼女の想いに何も答えていない
ただ立場と建て前をつきつけて、それを盾に逃げようとしている
「先生、私、本当に先生のことを好きなんです」
信じてください、と
その言葉はそう聞こえた
だが、氷室は言う
「君の気持ちには応えられない」

しばらく図書室は静かだった
気まずいような沈黙
最初に口をひらいたのは 彼女だった
「わかりました
 先生は、私を好きになってはくれないんですね」
悲しそうな声だったけれど、彼女は泣いてはいなかった
こんな時までしっかりしているんだな、と思った
すまない、と
それしか言えなかった氷室と比べたら 彼女の方がよっぽど大人だと思った

足音が響いて、ドアが締まった音がした
続いて、氷室の溜め息
は、ようやく顔を上げて、手にした本をぱたん、と閉じた

コツコツコツ、
自分の足音が響く
本棚の裏からカウンターへ向かうを、氷室は驚いたように見つめていた
・・・」
無言で本をカウンターへ置き、彼を見上げる
戸惑ったような、驚いたような、複雑な顔
冷たくなった心に、急に熱いものが生まれた
あなたは大人なんかじゃない、ただの卑怯者だと罵ってやりたい

「先生は、ずるいですね」
口を開いたら、声は自分で思ったより落ち着いていた
「聞いていたのか・・・」
「嫌でも聞こえます」
貸し出しカードに視線を落とし、氷室は苦笑したようだった
「先生は、あの人の気持ちに何も応えてなかった
 建て前と立場と結論を言っただけ
 それは、あの人に対して、失礼だと思います」
人が人を好きになった、その想いを認めもせず、受け止めもせず
まるで勘違いか幻か そうでなければ一時のものだと
そう言って 逃げた
「先生は、言い訳をして逃げてました」
卑怯です、と
の言葉に 氷室は何も言わなかった
ただ淡々と 貸し出しの処理をしている
どんな風な気持ちなのだろう、今
ここで、こんな風に、誰かの気持ちを殺してしまった人
少しは、その心を痛めてくれているのだろうか
クールな顔して熱いくせに、
こういう時 彼はどんな想いでいるのだろう

「先生はずるいです
 あの人が先生を好きになったのは、先生のせいなのに」

そして、自分が氷室を好きになったのも、また
彼に触れたから
彼が触れたから
手に、腕に、心に、触れたから
人は一人だけでは、けして恋になど落ちない
誰かが 自分の方を向いてくれる瞬間があるから
自分に触れてくれていると感じる瞬間があるから、恋に落ちる
だから彼女が氷室を好きになったのも、氷室が彼女の何かに触れた瞬間があるからだ
たとえば教室で
たとえばクラブで
特別に声をかけたり、誉めたり、笑いかけたり

「先生は、誰かが誰かを好きになる気持ちを軽く見過ぎています」
この前も思ったこと
きらめき高校の教育実習生が 彼を好きだと言った時に 氷室は迷惑そうな顔をしていた
恋人がいると言えば諦めてくれるだろうなどと、
彼女の気持ちに対して、自分の気持ちで応えるということをしなかった
逃げている、とその時も思った

「こんなに、好きにさせておいて、先生はひどいです」

泣かなかった彼女
落ち着いた声で告白したのは、自分と同じ様に氷室も自分を好いてくれると思ったからか
それとも、かなわなくても伝えることができれば、と多くを望んでいなかったのか
まさかこんな風に、想いごと全部否定されるなんて思いもしなかったに違いない
氷室にあんな風に言われたら、
この心に生まれて 戸惑って、消そうとして、それでも、それでもどうしようもなく
今 やっと自分で認めることのできたこの感情を あんな風に否定されたら

「私ならきっと、泣いてしまいます」

氷室に そんな想いは幻想だなんて言われたら
人は幻想で、こんなにも心を痛めたりはしないのだから

氷室は何も、言わなかった
ただ、苦々しい目だけがこちらを見つめている
貸し出しの手続きが済んだ本を手にして、はそっと身をかえした
図書室から出るまで、そこはとても静かだった


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