君の手から薫る (氷×主)


その日は、昼から吹奏楽部の合同練習があったので、朝のうちにメニューをまとめておこうと お気に入りの店へと出かけた
開店時間から30分ほど経っていたが、綺麗に磨かれた窓ガラスごしに見た店内に、客の姿は見えなかった
カラン、
ドアを開けると涼し気な音がする
もう通っていると言ってもいい程 しょっちゅう利用するこの店は どこか落ち着く雰囲気で
表通りから1本入った場所にあるから、知っている人しか来ない
その、隠れ家的な雰囲気が 氷室はとても気に入っていた

実際、最近それは、口実になりつつあるのだが

「・・・?」
朝の10時半
開店は10時のはずだが、カウンターに店員の姿が見えない
客はまだ誰もいないから、奥で片付けでもしているのだろうか
マスターの奥さんが出産間近だとかで、最近はマスターは病院通いが多く
バイトの店員が一人で店を開けていることもおおいのだが、そのバイトも姿が見えない
(・・・まぁ、いいか)
急ぐわけでもないので、いつもの席へと歩いていき、手にした書類をテーブルへ置いた
その時である

ガタンガシャンバタン・・・!

何か大きなものが倒れたような音と、何かが割れたような音が響いた
何ごとかと、思わず腰が浮き、
しばらく様子を伺ってもウンともスンとも言わないので心配になって 氷室はカウンターへ近寄った
「大丈夫か?」
中に誰かいるのは確かだが、声がしない
マスターなのか、バイトの店員なのか
それとも、第三者なのか
「・・・・・」
一瞬、ためらって、
だが氷室はカウンターの中へと入っていった
奥へ続く短い通路には何かの箱が積まれていて、その奥は物置きのようになっていた
そこに、見なれた後ろ姿がへたりこんでいるのを見つける
割れたカップ、散乱したその破片に混ざって、茶色い壊れた椅子が転がっていた
?! 大丈夫か?」
「・・・・・」
制服姿にエプロンをつけたに駆け寄ると、は無言のまま顔をしかめた
何をしようとしたら こんな惨事になるのかと、
呆れながらも、へたり込んでいるのを助け起こす
「・・・先生、どうしてここに?」
「大きな音がしたから何ごとかと思って見にきたんだ、大丈夫なのか」
痛そうに、右手首を抑えているを見下ろすと、は大丈夫ではなさそうな顔で 頭上でブゥゥウンと変な音をたてている機械に視線を向けた
「クーラーが・・・ききが悪かったので見てたんですが」
途中まで言ったの言葉の先を想像して 氷室はその痛そうに抑えている手首をそっと取った
「い・・・っ」
痛いと言いたいのだろうが、痛すぎて声が出ないのか
痛いから触るなと手を引きたいのだろうが、痛くてそれもできないでいるのか
恨みがましい目を向けてきたの その手首を抑えて 氷室は大きく溜め息をついた
大丈夫、骨は折れていないようだが
それでも酷くひねっているのか 少し腫れてきている
すぐに冷やした方がいいなと、
氷室はを そっと立たせた
とにかく、このガラスの散乱した危険な場所から出なくては、他にも余計な傷を作ってしまいそうだ

店に置いてあった救急箱の中から湿布を取り出して冷やし、その上から包帯を巻いたところで ようやく一息ついた
「ひびが入ったから捨てようと思ってた椅子に乗ったら 椅子が壊れて落ちたんです」
といつものように淡々とした顔で言ったに ひびの入った椅子など台に使うなと一通り小言を言って
氷室はの代わりに、椅子から落ちた時に蹴倒したコーヒーカップの破片を片付けた
「先生、ごめんなさい・・・」
「かまわない、
 君は休んでいなさい、これ以上怪我をされたら困る」
なんとか、ポーカーフェイスは保っているものの
心の中は 今すぐにでも店をしめて病院につれていきたい気持ちでいっぱいの氷室は 小さく溜め息をついて 大人しくカウンターの中の椅子に座っているを見た
もし、自分がいなかったらとうするつもりだ
落ちた時、咄嗟に手をついて身体を庇ったのだというが、もしそれで骨折していたら?
散乱したカップの破片で手や足を切っていたら?
頭なんかを打って、意識を失っていたら?
(・・・ぞっとするな)
何をしでかすかわからないだからこそ、ないとは言い切れない
椅子から落ちたくらいでも、打ちどころが悪ければ死ぬこともあるだろうに
「・・・まったく、君は気をつけなさい」
「はい・・・」
「クーラーなど自分でみずに業者を呼びなさい
 もしくは、マスターに見てもらいなさい
 君が見ても直るわけがないだろう」
「直るかもしれないじゃないですか」
「直る前に君が怪我をしたじゃないか」
「・・・」
そうですけど、と
拗ねたようにうつむいたは、包帯の手をゆっくりとさすった
落ちた時は痛みのあまり声も出なかったようだが、今は少し落ち着いたようで
湿布が気持ち良いとはにかんだ
「マスターに電話をして来てもらいなさい
 念のため、君は私が病院に連れていく」
「ダメです、マスター今 奥さんのとこに行ってるから」
相変わらず、客は誰もいなくて、
店を閉めるなら今だと、氷室は動かないの横の電話を取った
「先生っ、ダメですってばっ」
「だめではない
 ひどくなったらどうするんだ
 そんな調子では客がきてもろくに接客できないだろう」
「そんなことないです、大丈夫ですからっ」
電話を奪おうとするの届かない高さに子機を上げて、もう片方の手で電話帳を開く
マスターの携帯電話番号くらい書いてあるだろうと思った矢先、左手に持った電話が鳴った
「・・・」
はたと、電話を奪おうとしていたの動きが止まる
ルルル、と3回目のコールで 氷室が出た
「先生・・・、お客さんだったら断ったらダメですよ・・・
 店は閉めませんから」
不安気に が声をかけてくる
自分が心配性なだけかもしれないが、本当に大丈夫なのか
マスターがここにいるならまだしも、
一人きりで店ができるわけかない
こんな怪我をしていて
「あれ? ちゃんじゃないね、どちら様で?」
店の名前で電話に出た氷室に対して、受話器の向こうで、戸惑ったような声がした
ピンとくる
聞き覚えのあるこの声はマスターだ
なんてナイスタイミングなんだと、氷室はニヤ、とを見下ろした
「すみません、氷室です
 実は今、が店内で怪我をしまして・・・」
状況を説明して店を閉める許可を取ろうと、喋り出した氷室に が電話の相手を悟って声を上げた
「先生っ、ダメですってばっ」
怪我している方の手を受話器へと伸ばして奪い取ろうとしてくるのに、氷室は慌てて身体をよけた
っ、
 そっちの手は使うんじゃないっ」
「だったら先生 電話かわってくださいっ」
「ダメだ、大人しくしていなさい」
いつにも増して激しく主張するの様子につられて、氷室も対抗するように電話で会話を続けようとむきになる
何かあったんですか? と戸惑っているマスターに説明しようと口を開いた途端
その口を ぎゅむりと塞がれた
一瞬、氷室には何をされたのかわからなかった
驚いて、目を見開いて、それからを見た
怪我した右手は受話器を奪おうとしていて、空いてる左手で氷室の口をふさいでいるその様子に、頭がくらくらする
狭いカウンターの中なのに、すぐそこにあるカップが転がり落ちそうになっているのにまるで気にしないで、容赦がないというか何というか
身体を押し付けるようにしてくるのに、どくん、と血が頭に上る気がした
それで不覚にも、動けなくなってしまう
固まった氷室からまんまと受話器を奪い取ったは、電話の向こうでどうしたの? と心配そうにしているマスターに なんでもないんですと告げて さっさと電話を切ってしまい、それでようやく氷室はあきらの手から解放される
・・・」
心臓が、妙に大きな音で鳴っている
こんな風に、の手が自分の唇に触れるなど思いもしなかったから、動揺して動きがとまってしまった
にとっては、なんでもないことも
氷室にとっては どうしようもなく意識する
むぎゅりと押し付けられた手から、コーヒーの薫りがしたから
その行為は、余計氷室の心に残った

結局、
マスターは昼に戻ると聞いて、その日は氷室がカウンターへ入った
「まったく・・・痛くなったり違和感があったりしたらすぐに言うんだぞ」
「はい、先生」
洗い物をしている氷室の横で コーヒーを煎れながらは可笑しそうに笑った
「何を笑っている」
「先生がこんなことをするのは、意外です」
「誰のせいでこうなっているんだ」
「私は一人でも大丈夫ですよ」
「大丈夫ではなさそうだから、心配しているんだ」
時々、痛そうにしているから そのたびにヒヤっとする
そのくせ、奥さんの出産を前にしたマスターに心配をかけたくないと がんとして言い張るに負けて
(というか、触れられたことに動揺して もう何も言えなくなったと言った方が正しいか)
とにかく氷室には、マスターが戻るまで自分が店を手伝うという選択肢しかなかったのである

(無防備すぎるんだ・・・君は)

チラホラと入りはじめた客のために 湯を沸かしたりカップを用意したりしながら 氷室は表情からは何も読めないを盗み見した
何にせよ、未だにの手から薫ったコーヒーの薫りに 心拍数が正常に戻らない自分に 苦笑しかできなくて
我ながらどうしようもないなと、一人ごちた


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