今日の雨は冷たくはない (氷×主)


行くな、と
声を上げそうになって、目が覚めた
吸い込んだ空気が咽にいやな感覚を残し、それでわずかに咳き込んで起き上がる
薄暗い部屋は静かで、ベッドの脇の時計がコチコチと正確に時を刻んでいた

今日も朝から雨が降っている

「・・・けほ・・・」
ボー、とする頭を僅かに振り、そっと息を吐いた
いつもより熱い体温、だるい身体
わかっている、熱があるからだということは
を追って雨の中、立っていたからだと、原因も知っている
だからこそ、こんなことくらいで熱を出す自分も
あの雨の中、いつまでもいつまでも突っ立っていた自分も
思い出すと恥ずかしいやら情けないやらで、
それで氷室は憂鬱な気持ちでテーブルまで歩いていった

を抱きしめた雨の中
このまま時が止まればいいと、思った
全て、全てが停止して
をこの腕の中に捕まえていられる今のまま、世界が終わればいいと思った

「私、大丈夫ですから・・・」

昨日、そう言って逃げていってしまったを、いつまでもぼんやりと見ていた
後ろ姿が消えても、
あの雨の中 突っ立っていた
手に残った感触
冷たくて、華奢な身体
自分とは全く違う、少女のたよりない存在

(・・・どうかしてる・・・)
行くな、と言いたかった
いつもいつも、見ている
なのに、ふと気をぬくといなくなってしまいそうで、
どこかへ飛んでいってしまいそうで、
ヒヤヒヤしている
自分の手の届かないところへ行ってしまわないか
ハラハラしている
何を考えているかわからないからこそ、何をしでかすかわからないから
(・・・どうかしている)
昨日の雨は冷たかった
夏前だというのに空気はひんやりしていて、
重く濡れたスーツに、身体が凍えるようだった
の後ろ姿を見つめたまま、一体どれくらい突っ立っていたのか
考えていたのは、の失ったものについてだった

はきっと、雨の日に 愛するものを失ったのだろう

だから雨に濡れ、戻りたいと泣き
雨に抱かれるようにして、思い出に浸るのだ

忘れなくていいと言ったのは自分だった
あの教室で、形見になってしまったペンダントを返したとき は泣いていた
子供のように、長い間ずっと、泣いていた
彼のことも、言葉も想いも全て全て
忘れなくていいから、と
それは想いの証だから、と
言ったのは自分なのに、ひどくひどく嫉妬した
はもう彼以外を見ることはないかもしれない
行き場のない想いに苦笑した
これは、死者に対する醜い嫉妬だ
勝てるわけないのに

テーブルの上のグラスに水を入れて、薬と一緒に咽に流し込んだ
熱い身体に、冷たい水が染み込んでいくような気がしてすっとする
溜め息に似た呼吸
そのまま、窓の方へと歩いていった
カーテンを開け、少し窓を開けると、雨の音が聞こえてくる

サアサア、と
今は小雨になったようだ

灰色の空
雨はずっとは降り続かない
いつか晴れると、氷室は知っている
春の長雨の後、すっと晴れた海を見た時の感動は 今も心に残っている
全てを洗い流した雨が上がった後、世界には清らかなものだけが残るのだ
きらきらと輝く水面と、澄んだ空気
そして、どこまでも高い抜けるような空
あの景色を、忘れない
世界はこんなにも美しいのかと、思い知った
いつか、いつか
の雨も上がり、あんな風に晴れるといい

そんな日が、来ればいい

それはまるで祈りのように、氷室の心にずっとある
哀しい雨に負けぬ様、強くなろうとしている
見せてやりたい、あの景色を
美しく晴れた、あの世界を

溜め息をついて、窓をしめようとして ふと、地上に目をやった
中庭に何本も立っている街灯の光の下
見間違うはずもない、
そこに がいるのを見て、瞬間頭から全てのことがふっとんだ

「・・・っ」

どうやって、ここまで降りてきたのかわからないほど
勝手に動いた身体のままに、
ここに来たいと思った心のままに
氷室はマンションの中庭を突っ切った
驚いたようなが、顔を上げてこちらを見る
雨の中、また傘もささずに立っている
「何をして・・・・るんだ・・・」
けほ、と
咳が言葉の邪魔をしたのに、の目がわずかに揺れた
「先生、そんな格好じゃ、風邪 悪化しますよ」
いつものような、淡々とした言葉
表情からは、何も読み取れなかった
雨が頬に当たって、やんわりと服を濡らしていく
サァサァという小雨でも、長くいれば濡れるだろう
体温を、確実に奪うだろう
を見た途端、走ってきてしまった氷室のこんな格好では
パジャマに、裸足でサンダルで、
眼鏡もベッドの脇に置いてきてしまった

「何をしている、傘も、ささずに・・・」
「先生だって、傘さしてないじゃないですか・・・」

濡れますよ、と
もっと濡れてるが笑った
ふわり、
頬を染めているから、もしかしたらも熱があるんじゃないかと心配になる
そして自分はもう、この熱で何が何だかわからなくなっている
「こんなところで・・・学校は・・・?」
「終わりました
 今日のお休みは、先生だけでしたよ」
そうか、と
答えたつもりだったけれど、声は出てなかったかもしれない
の仕種や表情を見ていた
不思議と、雨の冷たさも感じなかった
ドクン、ドクン、
妙に響く心臓の音
それから、上がり続ける体温だけを感じていた

「先生、部屋に戻ってください」
風邪が、本当に悪化するからと
は言って 一歩離れた
「君は・・・何をしにきたんだ」
グラグラと意識が揺れる
また、手を伸ばしそうになった
だが、が背を向けた方が先だった
「私は、散歩です」
だから、もう行きます、と
言ったのに、こんな雨の日にか、と
思った
言葉には、できなかった
暗い道を、制服姿が遠ざかっていく

本当に、どうかしている

溜め息をついた
散歩なわけがあるか、とつぶやいてみる
の家からここまで、どれだけの距離があると思っているのだ
あのまま歩いて帰る気なのか
雨の中を?

思い遣って、氷室は昨日と同じく雨の中立ち尽くしている自分に気付いて苦笑した
本当に、どうかしている
熱が39度もあって、学校を休んだのではなかったか
その原因は、雨の中突っ立っていたからだ
次の日に、また同じことをしているなんて
同じ少女を追って、同じように濡れているなんて

(・・・進歩のない・・・)

我ながら、動物のようだと苦笑して 氷室は暗い空を見上げた
散歩だと言って現れたに、胸がドクドクいっている
熱も益々上がる気がする
それでも、寒くないのは
もしかしたらが自分に会いにきたのではないかと思うから
もしかしたら、責任を感じてか、心配してか
見舞いにでも来たのではないかと、思うから
そして
(・・・いやでも、あれは何を考えているかわからない・・・)
そういう期待を、今までさんざん裏切ってきた残酷なを想い苦笑して 氷室はそっと息をついた
何にしろ、この想いとに振り回されて
自分はまたしても、この有り様だ
体温も、めでたく上昇しているだろう
我ながら、恥ずかしいやら情けないやら
学習能力がない、とひとりごち もう一度空を見上げた
まだ、晴れる気配はないけれど 今日の雨は冷たくはない


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