雨 (氷×主)


雨の季節になった
朝も昼も夜も、降り続く音に聴き入って なんとなく授業にも身が入らずに
思考だけが、ふわふわと揺れる
あの冷たい記憶に溺れていた、少し前の自分
優しさで救ってくれた義人と、その記憶さえ大切なものだと受け止める勇気をくれた氷室
二人を想い、そして洋平を想い
は、窓の外に降る雨を眺めていた
グラウンドの土は濡れて、人の姿はここからは見えない
灰色の空と、温度のなさそうな雫が、線のようになって見えるだけ
ここには、まるで誰もいないようで、心がすっと、冷たくなる

世界にひとりきりになった気がする

立ち上がって、廊下に出てみた
3年生は放課後 予備校に通う者も多く、あたりには誰もいなかった
そういえば、いつのまにか下校時間真際で
こんな雨の日に、こんな時間まで残っている人なんて もういないのかもしれない
そっと、廊下を歩いてみた
自分の足音だけが響いている
どのクラスも電気が消えていて、渡り廊下から見える講堂も体育館も、灯りはついていなかった
大きな絵がたくさん飾ってある、美術室の前の廊下
理科室と図書室の廊下
どこも、静かだった
誰もいない

寂しさに似た何かに、心が浸る

階段を上った先の、掲示板
それから職員室
どこも静かで、人の気配なんかしない
薄い煙みたいな、灰色の景色
何のために、こんな風に歩いてるのかわからなかったけど
この耳に届く雨の音が、考えることを邪魔して
ただ意識だけを、ふわふわと身体から切り離すようで
こんな風ではだめだと、
何かをしっかり考えて、自分の意志で決めて、この足で歩いていかなればと思っているのに
ふと、
あの日の景色に捕われそうになる

あなたを失った、あの雨の日に

3階に、来た
家庭科室、教材置き場、放送室、そして一番奥に音楽室
わずかに、光が見えた
暗い廊下の向こう、曇りガラスが薄い色に変化している
ゆっくりと、歩いていった
半分くらいまで来た時に、音が聴こえた

ふと、現実に戻る

「ピアノ・・・」
顔を上げたら、景色には色が戻っていて
音楽室は、うっすらとオレンジの光を廊下に落としている
誰かがピアノを弾いている
その音が、うるさかった雨の音を消した

この曲は、なんと言う曲だろう
聴いたことがない
でもなんて、美しい旋律
靄のかかった世界が、晴れるような清清しくも優しい音色
(先生・・・・)
ドアの横に、座り込んだ
この扉の向こうにいるのは、きっと氷室で
今、自分を現実に引き戻したのも彼に違いないと
はそっと息を吐いた
ひどく、彼に逢いたいと思って、衝動にドアを開けそうになったのを 堪え
ただ曲が終わらないことを祈るように、聴いていた

氷室に、逢いたかったのだろうか
だから、こんな風に歩いていたのだろうか

曲は、いつまでも終わらなくて
高く、低く変化しながら まるでこのオレンジの淡い光に混ざって流れてくるかのように
冷たかった心を抱き締めた
まるで彼の手に、抱かれているような優しさ

目を閉じて、呼吸をそっと繰り返した
泣きそうになった

こんな雨の日に、氷室に逢いたいと思うなんて

どれくらいの時間、そうしていたのかわからなかった
突然に、下校時刻を告げるチャイムが鳴り、それと同時にピアノが止んだ
はっとして、我に返る
椅子を引く音、ピアノの蓋を閉める音、そして規則正しい足音
「・・・っ」
弾かれるように、立ち上がった
あんまり急に動いたから、一瞬くらっとする程
それほど長く、ここに座り込んでいたのだろう
この場から去ろうと、一歩踏み出したのと、音楽室のドアが開いたのは同時で
「・・・・え・・・・・」
驚いたような彼の顔に、思わずは真っ赤になった
? こんなところで何を・・・」
だから、その続きを聞く前に 身体が勝手に走り出していた
氷室の前をすり抜けるようにして、階段まで走った
っ」
声が追い掛けてきたけれど、それも無視して、一気に1階まで駆け降りた
ドクンドクン、と
心臓の音が聞こえる
何をしていたんだろう、自分は
あんな風に、あの場所で、この身を浸していた感覚
冷たかった心を、あたためてくれる存在に、目を閉じていた
あの旋律を聴いて、まるで彼のようだと思い
その腕に抱かれているような気になっていた

氷室の体温を、求めていた

一気に外まで出て、耳に激しく飛び込んできた雨の音に驚いて立ちすくんだ
ああ、雨が降っていたんだった
こんなに激しく、こんなに冷たく
あれほどに沈みそうだった気持ちが、今はわけのわからない焦燥に変わり
心臓はただ、ドクドクと早鐘のように打っている
(どうしよう・・・・)
何故、逃げてきたのかなんてわからなかった
何が何だか わからなかった

・・・っ」

立ち尽くすに、声がかかった
ギク、として また身体が勝手に逃げようとした
氷室の声が、姿が、意識を支配する
こんなにも身体を濡らしている雨が、遠く遠くへ去った気がした

・・・っ、君は・・・・っ」
戸惑ったような、言葉
1年の頃、よく聞いた
世界の全てに背を向けて、ただあの日に還ろうとしていた自分に 氷室はよくそう言った
君は、何をしているんだ
君は、何を考えている
っ」
逃げようと身を返したのを、捕まえられた
強い力が、腕を取る
「どこに行くんだ・・・っ」
あの頃の、戸惑ったような、怒ったような目ではなく
真直ぐで、強い意志を持った視線が、に向けられていた
身体が動かなくなる
教師だから、とか
担任だから、とか
彼の行動や言葉には、そういう義務のような意味があって
だから、そんな理由で自分なんかに関わって煩わしい思いをするのは可哀想だと
何度も、氷室が担任でなければ良かったのにと 思った
放っておいていいのに
私はただ、過去の過ちの日に戻りたいだけで
二度と帰らない人のことだけを考えているのだからと
毎日毎日、思っていた
こんな問題児、放っておいてもいいのに
なのに、氷室はいつも見ていてくれた
今も、こんな風に、手を捕まえている

「どこに行く・・・っ」

行くな、と 言った気がした
動けない身体を 強く強く引かれた
長い腕が、濡れた身体を抱き締める
二人とも、雨に体温を奪われて冷たくなっているのに
何故か、ここは温かい気がした

氷室の腕を、求めていた
目を閉じて、あの旋律を聴いていたとき

こんな雨の日に、
あの人ではなくて、氷室を求めて歩いていたなんて
あなたのいる場所だけに、色が戻って
あなたの存在に、意識が現実に戻ってくる
他の誰かを求めるなんて、もう二度としてはいけないと思っているのに
それで傷つけた義人のことを忘れないと誓っているのに
大人の、優しさに甘えてはいけないと
これだけは、自分でなんとかしなくてはいけないんだからと
自分で、立ち上がって、自分で戻ってこなくてはいけないんだからと言い聞かせているのに

どうしてこんなにも、求めているんだろう
心が悲鳴を上げそうなくらい
彼の腕に抱かれていたい
彼の側に、いたい
氷室を、全身で求めている

「先生・・・私、大丈夫ですから」

その、温かい身体から身を引き剥がすようにして は言った
涙が溢れた
氷室は担任だから、こうして気にかけてくれるのであって
彼の言葉も行為も、自分だけのものではない
そして、氷室がこんな風にしてくれるのも
1年の頃のように、ただ戸惑いだけの視線ではなく
まるで見守るような、優しい目で見てくれるのも、ただ

彼は知っているからだ
自分と、洋平のことを
そして、そのために傷ついた義人のことを

「盗み聴きしてたの見つかって・・・びっくりしたんです」

だから、氷室を求めてはいけない
他の誰も、もう求めてはいけない
温かい場所なんて、探してはいけない

この想いは、今日みんな この雨に流して消してしまわなくてはいけない

雨が涙を流していく
想いもみんな、流れてしまえ
抱かれた記憶も感触も、全部全部消えていい
全てなくなって、かまわない


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