泣きたくなった、切なくて (氷×主)


親友は、いつも通りの顔をして隣を歩いていた
夕方の、学校からの帰り道
クラブを終えて、今日やった小テストの採点をしようか、という時に鳴り出した電話
珍しいな、と
思って取ったら、相手はいつもと変わらぬ落ち着いた声で言った
「そっちに行くから少しつきあえ」

暇にまかせて散歩でもしていたのか、
義人は、今そこで買ったのであろう煙草だけもってフラリと現れた
もうすぐ下校時間のチャイムが鳴る
生徒達が小走りに校門へと向かって走っていった
「悪いな、仕事はキリついたのか?」
「ああ」
このまま食事でもして 義人の店に寄るのだろうと思ったから 氷室は車を駐車場に置いたままにした
どちらからともなく歩き出し、たわいもない話をして
その間中 義人はいつも通りだった

そして今、この浅い川の流れる土手までやってきている

「懐かしいな、ここ」
「お前がバカみたいに入っていた川だな」
「流れ、結構早いんだぜ」
「知っている、一度お前に落とされた」

隣で、ジッポのオイルの匂いがした
その後で、煙草のにおいが漂ってくる
「浅いから背立つだろ」
「突然突き落とされれば 誰だって驚くだろう」
学生時代、活発だった義人は 暑い季節には友達とここで水遊びをしていて
ある日、それを横目に通り過ぎるだけだった氷室は、義人を含む悪友どもに突き落とされた
夏の日ざしにうんざりしていた時期
片手に持っていた図書室の本が、氷室の手を離れて流れていき
氷室はその場にしりもちをついて、笑って手を差し出した義人を見上げていた
何が起こったのか すぐには理解できなくて
ただ熱かった身体が急激に冷えていき
ようやく我にかえった氷室のまわりで、悪友達は楽しそうに笑っていた

それは不快な思い出ではない、なぜか

「おまえあの時、不景気な顔してたからなぁ」
「失礼な」

歩を止めて、しばし二人は川の流れを見つめていた
夏には今も、子供達が水に入ったりしているのかもしれない
あの頃と変わらない水の流れに、氷室はわずかに微笑した
あの時、水の中でしりもちをつき、肩まで濡れた氷室に 奴は何て言ったっけ
笑いながら手を差し出して

「すっきりしたろ」

そう言ったんだった
遊べよ、
笑えよ、
試験中だからって、教科書ばかり見ていないで
夏だからって、暑さから逃げるようにしていないで
体内にこもっている熱を吐き出すように
心に正直に、笑えよ

懐かしい、と
氷室はつぶやいた
幼い頃からずっと一緒だった義人とは、性格なんか全く違うのに 今もこうしてつきあいが続いている
義人の奔放さを、氷室は羨ましいと思い
氷室の一途さを、好きだと義人は言った
互いに、互いは特別だ
だから、あのうだるような暑さの中、次の試験のことを考えながら歩いていた帰り道
突然に手を引かれ、背を押され
こんな川に突き落とされたことに、腹は立たなかった
飛び散ったしずく、真夏の太陽
笑った義人の顔が、憎らしいくらいに輝いていたから

日が暮れてきた
今年は急激に秋になるな、と義人がつぶやいた
見遣れば新しい煙草に火をつけている
ジッポの火に、義人の横顔が照らされているのをぼんやりと視界に映した
風がでてきて、火はゆらゆらと激しく揺れている
「そろそろ行こう」
促したのは、ここが寒くなってきたから
昼間はまだ夏のなごりで暑い程だけれど、夜にはやはり秋を感じさせる
ここは川の側だから余計に風が冷たい、と
言った氷室の目の前に、急に手が差し出された
「え・・・?」
チャリ、と何かが僅かな音をたてる
目の前の義人の指から、ぶら下がっている華奢な鎖
ゆらゆらと、
風に揺れるたびに、それはにぶく光った
女物の、ペンダント?
「どうした・・・」
急に、と
相手の意図を計りかねて問うと、義人の唇が笑みの形を作った
いつもの快活な笑顔ではない、含みのある顔
こいつがこんな顔をする時には、ろくなことがない
反射的にそう考えた氷室の思考を察したかのように、義人の視線が氷室へと映る
「これはね、の大切な思い出
 亡くした誰かにもらったもの
 ずっとつけてたのに、急に、捨てると言った」
だからここにある、と
いつもの、落ち着いた声で喋り出した義人を 氷室はただ無言で見つめた
の名前が出ると、ドクン、と
心臓が鳴る
言い様のないしめつけられるような想いが、身体中に広がっていく
今日も、図書室にやってきた少女
氷室の薦めた物語の棚を端から順番に借りていって
あの話はおもしろかっただの、
あの話は知っていただの、
感想を言うようになった
まるで二人しか存在しない世界であるかのような、放課後の図書室
その秘密のような時間は、甘くて心が満たされた
たとえ、が誰を想っていようとも

「とてもとても、大切なものだと思うよ
 まるでお守りみたいに ずっと持っていたものだから
 でも、捨てていいと言った
 それはようするに、昔の男を忘れるってことだ」
また風に、ペンダントが揺れた
の憂いの横顔と、涙に濡れた目を思い出した
愛した人間の、大切な思い出を捨てると言ったの心はどんなに痛んだのだろうと
思いやる
それでもなお、捨てると言って
その思い出が義人の手にあることに、氷室の心はギシ、と音をたてた
それはが必死に、義人の想いに応えようとしているということだ
捨てて、空っぽになって
なんとかして、義人を受け入れようとしているということだ
の全ての思い出とひきかえに

「・・・それで、おまえはどうする」
「俺はね、に確認した
 そしたらあの子は、処分してくださいって、そう言った」
ちゃり、と
手の平にそれを乗せて、義人は苦笑した
捨てるべきではないと、義人も氷室も思う
けれどは捨ててくれと、言うのだ
不器用な子供は、人の愛し方を知らない
そういう風に、見える
その決意があまりにも痛々しくて

「捨てるのか」
「俺はね」

義人が笑った
そして、言葉は続く
「おまえが、拾ってやれ」

氷室の止める間もなく、義人の腕がおおきく振られ、
その銀のペンダントは弧を描いて川の方へと飛んでいった
「・・・・・っ」
わずかに水音がして、あとは流れのサラサラいう音だけ
あたりは静かになって、しばらく二人とも何も言わなかった

3本目の煙草に火をつけて、最初の煙を吐き出して
ようやく義人が言った
「俺は、店があるから戻るよ」
答えない氷室に、微笑を残し
義人はゆっくりと去っていく
残されて、氷室はもう暗い川面を見つめていた

おまえの言葉も行動も、優しすぎて泣きたくなる

を、好きだと言った義人の言葉はずっと氷室の頭の中に響いている
最初は遊びだと言っていたのに
いつか、に魅かれ、真摯な想いを与えるようになって
こんな風に
想いは叶わなくても、届かなくても、報われなくても
何かをにもたらすために、
何かを与えてやるために、
こんな風に痛い賭をするのだから
のために
たった一人の、いくつも年下の、残酷な少女のために

ざぶざぶと、
川の中を歩きながら、意識は学生時代の頃へと戻っていた
あの夏の日、氷室の手から流れていった図書室の本を探して こうして川を下っていた
手伝うでもなく、謝るでもなく
義人は言ったっけ
「お前が本見つけて戻ってきたら、何でもしてやる」
御褒美に、と
自分で突き落としておいて、
そのせいで学校の本を失くしてしまったというのに
何が御褒美だと
憤って、呆れて、しまいには笑い出して
結局、夜中までかかって、氷室は大分下流の木の枝や自転車や道路標識や空き缶やらがたまった柵のあたりで本を見つけた
濡れて使い物にならなくて、
結局先生に謝りに行かなくてはならなくなってしまったものだったけれど
それはちゃんと見つかって、
氷室は「何でもしてやる」と言った義人に、かわりに反省文を5枚も書かせた
暑さが鬱陶しかった季節
義人の言葉も行動も、気分最悪に毎日を過ごしていた氷室の気持ちを晴れさせた
川に入ったり、
悪友と笑ったり、
反省文を書く義人が、途中で居眠りしないように見張ったり

義人は優しい
だから彼の行動や言葉には、彼の想いが込められている

車から取って来た懐中電灯で辺りを照らしながら 氷室は学生時代と同じように川を下った
「おまえが拾ってやれ」
そう言った義人の言葉を心の中で繰り返す
氷室でなくても、できるはずだ
を癒すこと
に、思い出を捨てるなと言ってやること
抱き締めて、慰めて、
優しい言葉で安心させてやって
そんなことは、義人でもできるはずなのに、あえて
あえて自分にやらせるのか
義人もを想っているのに
その気持ちは本物だと言っていたのに
譲るのか
身を引くのか
この昔から、想いを口にするのが下手だった親友のために
氷室のために

賭だったろう
この川の流れから、ペンダントを拾うことができたら お前に託すと
できなければ、俺がやると
これは義人の賭なのだろう
を想って大人二人
こんなにも心を痛めているなんて、まるでおかしくて笑ってしまいそうだ
まさか、義人と同じ女を好きになるなんて思いもしなかった
こんな切なさを味わう日がくるなんて、想像もしなかった

風のつめたくなった深夜、懐中電灯の光にチラ、と輝くものがあった
ゴミ溜みたいになっているこの下流
水は綺麗なのに、と
あの頃も不思議に思ったこの場所
未だ手付かずのまま、放置されてあの頃と同じような影を作っている
手を伸ばして、その銀の鎖をすくいあげた
長い間水につかっていた金属は、指に冷たかった

泣きたくなった、切なくて


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